人の傷に触れて、それをコメディにすることの意味
――村本さんの独演会を拝見すると、とてもカロリーを消費されているなと感じます。災害や差別に苦しんでいる人々の声を聞き、彼らの傷や悲しみに触れようとするあまり、自身も精神的に消費されていると感じることはありますか?
確かに、泣いている人を見ると、自分も悲しみに持って行かれそうになることはある。すごく大きな悲しみの中にいるときは、距離を取るようにすることもある。
でも全国で俺の独演会を主催してくれる人はみんな、彼らの傷に触れる俺のコメディに何かしらを求めている人たち。
この前、馬毛島(鹿児島県)の基地計画に反対している移住者の女性と、馬毛島に行ってん。種子島から馬毛島までは、漁師さんの船に乗って三十分。そのときに彼女が俺に、「あの島のせいで島民はずっと喧嘩している。あんな島沈んで無くなればいいのに…」って呟いてん。
それから三日間、彼女と一緒に島を回って、賛成意見も反対意見も、島民のいろんな意見を聞いた。
「移住者のくせに、どうせすぐに島から出て行くくせに」と言う人もいれば、「移住者だからこそ言えることがある、ありがとう」と言う人もいた。「自然を守りたい」と言う人もいれば、「自然じゃ飯は食っていけない」と言う人もいた。
帰りの船で彼女が、「三日前の『あんな島無くなればいい』って言葉、撤回させてください」って言ってん。いろんな意見を聞いて、自分が発した言葉があまりにも強かったという反省もあり、きっといろいろと考えることがあったんだろうね。
結局何の解決にもなってないけれど、人間のそういう部分を見たときに、なんかすごいものを見させられた気分になるねん。
人の傷に触れて、それをコメディにして、そのことに感謝されたりなんかすると、ちゃんと自分が存在しているということを俺も実感出来る。
でも、俺はまだまだだと思うよ。凄まじい渦の中にいる人たちに比べたら、俺なんかぬくぬく生きてる方だから。