高校バスケの王者・能代工の終焉
勝ち続けることはとにかく難しい。80年代の高校野球を席巻したPL学園は今や休部となり、サッカーの選手権大会で最多優勝回数を誇る帝京と国見も、以前ほどの強さはない。
バスケットボールにおける能代工ですら、王朝の存続は叶わなかった。
2007年に地元・秋田で開催された国体での優勝が、現時点で最後の日本一だ。チームを25回の日本一へと導いた加藤三彦が翌年に能代工を離れると、一気に凋落が押し寄せてきた。
この時期になると、資金力に恵まれている私学が、海外から身体能力の高い留学生を多く獲得するようになり、公立校に不利な時代が到来する。能代工も例外ではなく、加藤から監督を引き継いだOBの佐藤信長はチームを日本一へと導けずに退任。
後任の栄田直宏が監督だった16年には、54年ぶりに全国大会にすら出場できない屈辱を味わわされた。75年にエースガードとして能代工初の3冠に貢献し、現役引退後も全日本の監督を務めるなど実績十分だった“切り札”、小野秀二ですら覇権奪還は叶わなかった。
そして2020年。時代の終焉が訪れた。
能代工と能代西の統合が決まり、校名も「能代科学技術」に変更されることが決まったのである。全国のファンや地元住民が「能代工業の名前を残してほしい」と訴え、署名活動を試みたが、この決定が覆ることはなかった。
能代科学技術の「新監督」
小松元(げん)は、そんな時代のうねりに翻弄された当事者だった。
秋田県大仙市出身。横手高から金沢大へ進み、卒業後に教員となった。能代商(のちの能代松陽)、男鹿工、能代松陽でバスケットボール部の監督を務め、15、17、18年の国体で少年(高校)女子チームの監督を務めるなど、指導者として実績を重ねてきた。
能代松陽の女子バスケットボール部監督だった20年3月。小松は「いい選手が揃った。今年は勝負できるかもしれない」と期待を膨らませていた。そんな矢先、能代科学技術への異動が決まったのである。
その人事は同時に、バスケットボール部の新監督となることも意味していた。
「いきなり銃口をこめかみに突き付けられた気分でした。私は能代工業のOBじゃありませんし、正直、重かったですよ。でも、受けざるを得ないですよね、公務員なんで」