瀬戸内晴美と私。大人に混じって参加した
カレーパーティーの思い出
――1970年に同じ本郷ハウスに住みはじめた頃、長尾さんは14歳で寂聴さんは48歳。1973年に寂聴さんが51歳で出家したとき、長尾さんは17歳でした。間近で見て、寂聴さんはどんな存在でしたか? 憧れの目で見ていたりしたのですか?
長尾 うーん、それがそういうわけでもなくて。親戚ですし、否応なくそこにいましたから。学校から「ただいま」って帰ってくると、うちの食卓でご飯を食べているわけですから(笑)。「ちょうどよかったからこれ届けて」とか「資料が足りないから、神保町まで行って探してきて」とか、すぐに言いつけられて、制服のまま行かされたりしましたよ。身近すぎて、憧れというのとはちょっと違う感情だったと思います。
――なるほど、そういうものなのかもしれませんね。
長尾 でも、瀬戸内はときどき、自分の部屋でカレーパーティーを開いて、編集者さんや画家さん、装丁家さんなんかと一緒に、私や本郷ハウスに住む友人の子も招いてくれました。そんなときの瀬戸内は、私たち子供も全然邪魔者扱いせずに、大人に混ぜていろんな話をしてくれたんです。そういうのが嬉しい年頃だったので、「皿洗いを手伝うから」と言ってよく混ぜてもらいました。
――ああ、いいですね。そういうの。
長尾 当時一緒にパーティに参加していたその子とはのちのち、「ただのカレーであんなに楽しかったのは、なんだかおかしいよね。何か入ってたんじゃないか?」って冗談を言い合ってましたけどね(笑)。
――(笑)きつい冗談ですけど、そこまで楽しかったわけですね。
井上光晴と過ごした日々と本郷ハウス。
著者・長尾玲子は自殺を心配していた
――これはぜひ聞きたかったのですが、寂聴さんが当時お付き合いしていた……まあ今ふうに言えば不倫していた作家の井上光晴さんは、よく本郷ハウスの部屋を訪れていたそうですけど、長尾さんもその存在を感じることがありましたか?
長尾 存在も何も、いつも普通にいましたからね、そこに(笑)。
――あ、そういう感じだったんですね。
長尾 母も私もきちんと紹介されたわけじゃないので、誰だかわからなかったんですけど、井上さんは声も態度も大きな人で、まるで家主のような顔をしていましたよ(笑)。ご自分が帰る時は、「じゃあ、この人のことよろしくお願いします」って瀬戸内を見つめながら、中学生の私にも頭を下げるんです。「井上さん」と呼んでいたから親しい友達でもなさそうだし、編集者でもないし。いったい誰なんだろうっ?て母とよく話していました。気がつくと夜もいるし朝もいるし、「あれ、泊まってるんだよね」って(笑)。
――へえー。得度して寂庵(出家した瀬戸内寂聴が京都に建て、遷化するまで住んでいた庵)に行くまで、ずっとそういう状態が続いていたんですか?
長尾 そう。ずっとですね。得度してからも、井上さんは寂庵に泊まっていたと思いますよ。井上さんの寝巻きやセーターがあるのを見ましたから。
――すごい関係ですね。
長尾 本にも書きましたけど、得度前に本郷ハウスで暮らしていた頃は、瀬戸内は、いつかマンションの窓から飛び降りてしまうんじゃないかと感じていたんです。きっと井上さんもそれを心配されて「よろしくお願いします」と言われていたのだと思います。『あちらにいる鬼』で井上荒野さんが書いていましたけど、井上さんご夫妻と瀬戸内の3人で阿波踊りを見にいったり、函館旅行をしていたりもしたんです。荒野さんも“仰天した”と書いていますけど、私にも理解できません。私たちにはわからない世界です。
――瀬戸内寂聴さんにとって、本郷ハウスというのは井上光晴さんとの思い出が多く残り、また出家をしようと決めた時に住んでいた場所で、特別な思いがあるのではないかと推察します。のちに寂聴さんも長尾さんご一家も本郷ハウスを去りますが、何か思い出を語っていたことはありますか?
長尾 よく話していましたよ。「私はあそこに住まなかったら、得度しなかったかもしれない」とも言っていました。
――本にもそのあたりのことは書かれていますが、長尾さんもそう思われますか?
長尾 そう思いますね。これは本郷ハウスに限ったことではないのかもしれませんが、東京のど真ん中で、遊園地の間近だったりする賑やかな場所なのに、とても寂寥感があるんです。家族と住んでいる私でさえ孤独を感じ、寂寞とした風が吹いてくるのを感じました。瀬戸内の得度の理由は誰にも分かりませんが、そんな本郷ハウス時代がなければ、“寂聴”は生まれていなかったのかなと思います。
『「出家」寂聴になった日』にはさらにディープに、瀬戸内寂聴の生き様を間近で見てきた長尾さんの日々が綴られている。
取材・撮影・文/佐藤誠二朗