17年も関係が続いたのは、偶然だった
――中村監督と寂聴さんの出会いを教えてください。
2004年にテレビのドキュメンタリー番組の取材でお会いしたのが瀬戸内寂聴先生(以下、先生)との出会い。取材が終わってからも関係が続いたのは偶然だと思います。当時から、ずっと先生を撮り続けたいと思っていたわけじゃなかったですしね。大きかったのは、翌年に別番組で先生と一緒にフランスに行ったこと。別の作家が急遽ロケに行けなくなってしまったので、穴埋めするために「先生を口説いてくれ」と言われまして。ダメもとでオファーをしたら、番組のためにスケジュールを空けてくださったんです。
その翌年にも、先生の番組を撮らないかとNHKからオファーを受け、世阿弥の晩年に焦点を当てた『秘花』執筆のための佐渡島取材へ同行しました。強行軍だったので現場で僕がイライラすることもあったのですが、先生はスタッフたちに気を遣ってお茶を配ってくれたり。本当に優しかったですね。
結局、先生のテレビ番組は17年の間に9本制作。ほかにも一般の方の身の上相談を受ける動画配信番組を5年ほど担当しました。
――映画を制作することになった経緯は?
2009年頃から「私が死ぬまで撮りなさい」と言われるようになったんです。年に5〜6回、先生が暮らす京都の寂庵に行ったり、先生が東京に来られたときにカメラを持って宿泊しているホテルに会いに行ったり。どこかで食事をするときもずっとカメラを回していたので、いつか形にしようという話になり、タイミングとしては100歳の誕生日(2022年5月15日)くらいに映画を発表しようと予定していました。
ところが去年の秋に亡くなってしまいまして。僕自身、ちょっとモチベーションが失せてしまったんですね。本来ならば元気なうちに仕上げて、「こんなところを撮って!」なんて先生に怒られることを思い描いていましたから。
僕が元気な先生に最後にお会いしたのは、2021年の6月8〜9日。いつも通り寂庵のダイニングテーブルでしゃべっていたのですが、お酒が入っていたので内容をよく覚えていなかったんです。ところがそのとき撮った映像を亡くなった後に見返したら、「映画を作るんだったらちゃんと計画して撮りなさいよ」と先生が僕を怒っているシーンがありまして。これはちょっとまずいぞ、供養のためにもちゃんと作らなきゃいけないと思い、今年の3月から1ヶ月、編集室に泊まり込みをして仕上げました。
――劇中では監督が一人称でナレーションをされていますね?
2006年くらいまでは、一問一答でインタビューをする一般的な番組の作り方をしていたんです。先生もお坊さんの格好をして、メイクをして、こちらもライトを当てて。でも「私が死ぬまで撮りなさい」と言われてからは、お金がかかるので取材のたびにカメラマンを連れて行くこともできなくて。途中からは僕が個人的にカメラを買って、インタビューというよりも個人的な雑談をしながら撮るスタイルになっていったんです。
2015年に制作したNHKスペシャル『いのち 瀬戸内寂聴 密着500日』も映画同様、一人称のナレーションを使いました。客観性を重んじるNHKの方程式には当てはまらない作り方でしたが、先生の生き様を描くためには、そのチョイスがベストだと思ったんです。
――年末年始に寂庵に宿泊されることも多かったそうですね。
寂庵は尼寺なので、本当はあまり男を泊めてはいけないんですけど、先生の身の回りのお世話をするスタッフはみんな17時には家に帰るので、夜はおひとりになるんです。僕は妻もいないし子供たちはみんな独立していますので、「もし嫌じゃなければ泊まりますよ」と提案して寂庵で年を越すようになりました。
劇中ではすき焼きとお寿司とステーキがいっぺんに食卓に上がるシーンが出てきますが、日頃からあんな食生活をしていたわけではありません。僕が久しぶりに寂庵にお邪魔したときに、最大限に歓待するために用意してくれたもの。あまりの豪華さにビックリ仰天しました。僕に限らず、人をもてなすときの先生の気持ちの入り方はすごかったと思います。