佐川恭一の作品は❝小説❞ではない!?

編集部 続々とありがとうございます。それでは佐川恭一さんの魅力についてお伺いしたいのですが──。

天沢 佐川さんの作品の主体は、最初は明確に、愚直に、自分の力を捧げ目標へ向かって邁進するんだけど、途中で必ず脱線したり妥協したりしてしまって、最終的にちょっと哀愁を漂わせずれて行くことが多い。それが凄くいとおしくなる。

樋口 そうですね。なんというか、現実だとクズで共感はできない人間たちなんだけれど、共感してしまうような、文学のマジックを凄くポップにやってますよね。

天沢 ポップですよねー。「踊る阿呆」もそうですよね。踊りに邁進してて、くだらない世俗的な人間たちに迎合する必要なんかないんだ! って振る舞いながら、ラストで弱さが垣間見えるっていうところに、人間を描いている感じがしていいなと。

樋口 「少年激走録」の厨二病の男の子出てくるじゃないですか。

天沢 死ぬ死ぬ詐欺をしている人ですね。

樋口 そいつが決め台詞をポンポンいいますが、そういうキャラクターの造形が異様に上手いですよね。敵キャラ的立ち位置なんだけれど、彼が語り手でもいいくらいの解像度がある。

天沢 逆にこれは俺では? と思うような人物がすごい雑魚キャラとして現れていて…… 。

樋口 そう。大衆性と文学性があったら、佐川恭一の場合、大衆性を信じて、大衆性の側に立つことによって文学にしてるみたいな、そういう印象です。
 書き手の佐川恭一自身は文学の方に傾倒していたのだろうけれど、それを文学だっていうふうにはせずに、あくまでも大衆性の側に立とうとする。当たり前に普通に生きる中で、性欲とか、折れてしまう心とか、そういうものに寄り添って描き切ることによって、文学性を纏っていくような。

大滝 強いオブセッションを持っているところは、佐川さんが好きな大江健三郎と近いところがあるなと思いますね。村上春樹や大江健三郎などの、作品を積み重ねることによって作品全体の価値が高まっていった作家って強いオブセッションを持っていて、同じようなテーマを何回も何回も擦り倒すんですけれども、突き抜けたものがある。なので、普通だったらあきられるような話なんですけども、最早その次元ではなくなるんですよね。佐川さんが京大の話をすればするだけ面白くなるのもそれと同じだと思います。

編集部 「科挙ガチ」で見せた構造や情報のアンバランスさと同居する、プロット的展開も魅力だと思います。清朝を舞台に散々下品な話をしているんですけれど、ラストはとても爽やか。これはひとえに主人公の成長を描いているからなんですよね。童貞が超えるべき二つの問題が描かれていて、英俊は清朝で一種の脱童貞に成功しますが、他者との交流は徹底的に失敗する。だから彼は現代に戻ってきたときに同じ轍は踏むまいとし、そこには微かですが確実な成長が見える。だから一見アンバランスに見えても、そこには読者が物語の接続点を見いだせるだけの構造があって、そして人間が描かれている。このバランス感覚こそ佐川恭一の佐川恭一たるゆえんかなと。

樋口 近年までの多くの作品は、男性の物語で、妻とか彼女とかがそこに現れたとしても、ちゃんと対話をすることは少なかったように思います。「愛の様式」くらいからエンタメとして全体の構造とか、場面全体を描くというような、意識が働いているような気がします。「愛の様式」では、語り手が今までのように自分の殻に閉じこもって自分の自意識を暴走させながら自己中心的な空転を続けるんですけど、最後の方で妻に寄って自己中心的な世界が破壊されて子供も生まれ、他者がどんどん2人の中に侵入してきて、最後は家族という、ある種の磁場みたいなものが広がっていって終わる作品なんですね。「科挙ガチ」も最後は思春期という、男性女性問わない広い場に向かっている作品で、それはエンタメというものが一人称以外の視点を要請するからなのかなと思いました。一人称の自意識だけではエンタメにならないといった力学があって、だからどんどん他者の声が入ってくる。これまで佐川さんが描けなかったような女性の主人公や女性と対話する主人公が生まれたのかもしれないですね。

天沢 なんだろう、皆さんおっしゃっていることは凄くわかるんですが、同じ小説を書いているのだけれど、佐川さんの作品は本当に小説なのか? という気持ちにもなる。

樋口 デトックスされる感じがありますね。

大滝 デトックス!? 猛毒では(笑)。

樋口 これまでの小説に対して思っていた身体性が壊される感じはある。小説ではない可能性……がありますね。同業者として、他の作家さんの作品を読むと多かれ少なかれ嫉妬とかあるんですが、佐川さんには不思議とないんですよね。

大滝 確かに。凄くテンション上がって僕も頑張るか! とはなるけれど。他の作家と読後感が違いすぎる。

天沢 ライバル心とか生まれませんね。

樋口 佐川さんがスターダム駆け上がっていくのを見るともっとやれ! という気持ちにしかならないです。一ファンとして推せるという不思議な人です。

天沢 不思議といえば広がり方も独特ですよね。きゃりーぱみゅぱみゅさんとか押見修造さんにも届いてる。

樋口 佐川恭一ポテンシャルあるな〜!スターダムを自分で作ってますよね。

大滝 そこ通れるの? って道をいってますね。

樋口 佐川恭一、小説ではないのはこの広がり方にも当てはまりますね。今までのマーケティングは通じないのかも。

高橋 破滅派での『シン・サークルクラッシャー麻紀』の売り方としても、サブカルへの関心の高い方へだったり、芸人さんへだったり、そういったところへリーチするようにしています。

『清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた』 高橋文樹×樋口恭介×大滝瓶太×天沢時生 著者 佐川恭一を語る会_10
シン・サークルクラッシャー麻紀
(破滅派) 定価2200円(税込)

大滝 佐川さんの小説って基本的に青春小説なんですけれども、「科挙ガチ」とかになってくると結構王道ですが、それ以前はほとんどが失われた青春の物語なんですよね。

編集部 失われた青春へのルサンチマンがあるんですけれど、読者にそれを悲劇として読ませない魔術は感じますね。

天沢 だから僕は佐川さんの作品をブルースだと思っていますよ。

高橋 なるほど。壊れた楽器とか変わった奏法とか、ブルースと通じるところありますね。だってもう、社会人になったらその武器使わないでしょうと思うような、受験のことを書いていたりして。

樋口 ブルースっていうのはすごくいい切り口というか、何か本質な気がしますね。実験音楽なんですよね。身の回りにあるもので何ができるか、どういう表現ができるか。佐川さんはずっと実験してるんですね。

天沢 ブルースって自分達の悲哀を悲しむんじゃなくて笑ってくれよ、ちょっと余裕なくてみっともないところも見せちゃうけれど、みたいな感じだから。それにたまらなく惹かれるんですよね。

「小説すばる」2022年12月号転載

関連書籍

『清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた』 高橋文樹×樋口恭介×大滝瓶太×天沢時生 著者 佐川恭一を語る会_11
清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた
著者:佐川 恭一
集英社
定価:本体1,700円+税

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