真のエリートとはどのような存在か

おおた 聖徳太子は7人だか10人だかの話を同時に聞くことができたと言われていますけど、あれって超能力的な意味での同時リスニング能力があったということではなくて、きっと7人やら10人やらの利害がぶつかり合う状況でも、みんなが納得できる落とし所を瞬時に見出す力に長けていたという逸話だと思うんですよね。彼もトーキングチーフスの役割を担っていたわけですよね。

宮台 そう。「エリート=選りすぐり」という言葉を使うなら、トーキングチーフの能力をもつ者だけがエリートです。これは皆が言ういわゆる「エリート」とは違う。だから「半地下の卓越者」と呼ぶ。指導者じゃなく触媒者だからです。

おおた そういう存在が社会のなかで一定数育たなければいけない。みんながみんなそうなる必要はないけれど。その土壌をつくるためには……。

宮台 まず「同じ世界」に入るための言葉を使うこと。話してきた通り、ロゴスは「同じ世界」に入れない人々をつなぐための言葉です。言語学者のローマン・ヤコブソンはこれを「散文言語」と呼びました。

それに対し、「同じ世界」に入るための言葉を「詩的言語」と呼びました。さっきの初期プラトンを思い出しましょう。詩的言語を操れるひとが「詩人」でした。つまり詩人はトーキングチーフに近いんですね。

詩人だけじゃダメってなったのは、ポリスが大きくなりすぎて内部分化したからです。プラトンが転向したときのアテネは人口24万人。ルソーが示した上限2万人なら、詩人も機能できて、ロゴスじゃなく言外でひとをつなげられます。

僕らは散文言語を使います。複雑な社会に生きるから仕方ない。でも、ときどき「同じ世界」で「一つになる」コミュニケーションをしなきゃダメです。つまり、言葉の外でつながるための言葉=詩的言語を、復権する必要があるんです。

おおた そうですね。

宮台 さもないと永久に「敵は敵、味方は味方」のままです。「日本人は日本人、中国人は中国人」「女は女、男は男」みたくカテゴリーにへばりついてステレオタイプを行使する、ウヨ豚やクソフェミみたいなおぞましい差別主義者になる。

デイヴィッド・グレーバー風にいえば、「中国? 日本? アメリカ? そんなもの、あるの? あるなら、目の前に出してみて。えっ? 出せないの。そんな目に見えない、ワケのわかんないもののために戦争すんの?」ってことです。

「日本のために戦争しまーす、アメリカのために戦争しまーすって、頭が腐ってない? 都合よく動員されてるだけだよ」ってことです。それを映画にしたのがテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』(1998年)でした。

反戦映画だと思われがちだけど、反戦か主戦かみたいなイデオロギー対立自体を鼻で笑う視座で作られています。ワニの時間、鳥の時間、森の時間、先住民の時間に、頭が腐った文明人の視座を対置するわけ。毎年のゼミの教材ですね。

なぜ鼻で笑うかというと、言葉で構築された『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリがいう「虚構」に操縦されているからです。その虚構は、人類史的にみれば、人類やあまたの存在の存続可能性に資することが確かめられていない。

改革派神父から社会学者になったイヴァン・イリッチ風にいえば、ワニの時間、鳥の時間、森の時間、先住民の時間は、何万年も続くことで、人類やあまたの存在の存続可能性に資すると確かめられています。存在論的=生態学的思考です。

おおた その「虚構」は、人間がもつロゴスの力によってつくられた、「ロゴスの檻」。人間は自らの力で構築した虚構の中に自らを閉じ込めてしまう。

宮台 でもロゴスがないと大規模定住社会は営めません。ロゴスと結びつくのが形而上学的な虚構です。丸山眞男も「国民国家には虚構が必要不可欠」と言う。その通り。でも、それに支配される奴隷として生きるのはおかしいでしょ。

おおた そうですね。

宮台 ひとは「国家が暴走する」と言う。国家なんて目に見えないものが暴走するわけがない。目に見えないものがあると信じる人間たちが暴走しているだけ。これが「共同幻想」というやつ。吉本隆明がマルクスから引き出した概念です。

しょせん国家はその程度のものです。でも国家がその程度のものだと感じられるかどうかも、実は共同身体性の問題なんですね。子どもはカテゴリーを超えて「同じ世界」で「一つになる」。そのことを忘れた頓馬だけが暴走するんです。