重要なのは「感染」を引き起こす言葉

おおた 社会を維持していくうえでロゴスの力は利用しなければならないけれど、一方で、虚構に支配されることで自分の身体性まで損なわれてしまうのはおかしいよなと気づけるひとが一定数いなければやはり社会は維持できないと。

宮台 そう。別の言葉で言える。僕らが使う散文言語=ロゴスを「表現」と呼ぶ。抑圧(suppress)されていたものを表に出し、相手に印象(impress)づければ、表現(express)の成功。でもこれは相手への新たな抑圧(suppress)になる。

つまりフロイト的にいえば、表現とは、ロゴスによるコントロールです。それがないと大規模定住社会は成り立たない。たとえば大規模定住に不可欠な行政官僚制の文書主義的な統制が成り立たない。でも大規模定住はごく最近の話です。

それより何十万年も前から「言葉の外でつながる営み」がありました。歌と区別された言葉が生まれた四万年前以降も、「言葉でつなげるための言葉」だけじゃなくて、「言葉の外でつながるための言葉」があります。これが「表出」です。

子どもの遊びを想起します。そこでの言葉はエネルギーの発露としての表出(explosion)です。たとえば叫び。他者への印象づけ(impress)の意図などない。ただ叫ぶ。叫びが叫びを澎湃と巻き起こし、「同じ世界」で「一つになる」。

これは、発露されたエネルギー(力)が流れとなって、身体を巻き込む流れです。力の流れへの巻き込みが「ミメーシス(感染)」です。詩人の言葉は、「理解」じゃなく、「感染」を引き起こす。そこでの言葉は、むしろ歌に近いんですね。

再びナンパの話でいえば、ちまたのクソナンパ講座では、女をコントロールする「表現」を、型として教える。劣等感のツボをめがけて承認するとか。女が言葉の自動機械だと、それで舞い上がってトランスになる。営業トークと同じです。

僕のワークショップは違う。営業トーク的な「表現」によるコントロールを全否定する。トランスはトランスでも「同じ世界」で「一つになる」フュージョンです。子ども時代の「黒光りした戦闘状態」で団子になる享楽でトランスになれと。

そこでの言葉は、言外の流れにシンクロするための掛け声です。つまり「表現」じゃなく「表出」。だから、むしろ言葉以外の挙措やリズムが大切になる。当たり前です。言外・法外・損得外へのコールとして機能すれば、何でもいいんです。

確認します。「認知」の反対は、「非認知」ではなく「力の流れ」です。社会システム理論の言い方だと、「動機付け機能と分断された言語」ではなく「動機付け機能そのものである言語」。「力の流れ」を触媒する身体性としての言葉です。

おおた その身体性というのは、一種の能力って言えちゃうんですかね?

宮台 能力です。だから養えます。たとえば森の中で遊ぶ体験を通して「同じ世界」で「一つになる」という共同身体性を養えます。それで本当の祭りと本当の性愛を生きられるようにもなる。だから森のようちえんに意味があるんです。