倒れた後も監督はできた

木村 そうですか。一命を取りとめられて、左半身に麻痺が残ることになったわけですが、その後も、ものすごい記憶力と思考力は健在で、倒れる前と同じか、あるいはそれ以上に復活されたと思いますよね。

2007年に倒れてから15年の間に、ボスニアサッカー協会の正常化委員会など、大きな仕事も成し遂げられたわけですけれども、もし、あのときの判断が「リスクを冒しての薬の投与」だったら、どうなっていたのだろうかというのは、ちょっと思うときもあるんです。

大野 そうですね。倒れてからのこの15年間を振り返ると、実は、監督もできたんじゃないかという思いが、僕にはちょっとあるんです。

ボールを蹴って指導することはできないけれども、あれだけの頭脳とか見識、サッカーを見る能力とか、体力にしても、特に倒れた後の最初の5年間くらいは、いま思い返せば、しっかり監督ができたのではないかと思います。

「たられば」で言っても仕方がないんですけれど、もう一度、監督をしていただくチャンスをあげたかったな、という思いが僕にはあります。

木村 そうですね。

大野 オシムさんが倒れた段階で、日本サッカー協会が監督交代の判断をしたのは仕方がないことだったと思いますが、復帰してからは、もっと何らかのやり方があったのではないかと。私自身も、もう少しオシムさんが現場に戻ることを主張してもよかったのかな、と思い返すこともあります。

木村 日本サッカー協会とアドバイザー契約というものを結ばれましたけれど、あれはオシムさん、嫌がっていましたよね。「何をしていいのかわからない」とおっしゃっていた。

大野 結局、具体的な活動はないまま終わってしまいました。

木村 意識が戻ったときには、もう代表監督ではないことを病院で通達されたんですよね。せめて、意識が戻るまでは監督代行などでつないでおいて、回復してから話し合いがあってもよかったんじゃないか、と思います。

ボスニアで「オシムカップ」を開きたい

木村 お別れの会はグラーツでやって、サラエボでやって、ジェフの本拠地である千葉でも行われましたけれど、日本代表監督だったのだから、日本サッカー協会もお別れの会をやってほしいなと思うんです。代表のユニフォームを着たサポーターたちが、「シュワーボ(オシム氏の愛称)、ありがとう」と呼びかけをする機会を、ぜひ作ってもらいたい。「シュワーボ、オスタニ(いかないで)」から「シュワーボ、フヴァーラ(ありがとう)」に。

大野 そうですね。ちょうどサラエボで反町さんとお会いする機会があったので、そういう話はいろいろしました。もしかしたら、できるかもしれないと。

それから、オシムカップみたいなものを、今後、ボスニアで定期的にやりたいですね、という話になりました。日本のアンダー世代の若い選手が毎年ボスニアに行って、記念の試合をするというのを考えていると。反町さんもサラエボのオリンピック・スタジアムに下調べに行かれたそうです。

木村 そうですか。それは、ぜひ実現してほしいですね。

故・オシム氏「命を取るか、サッカーを取るか」知られざる家族の決断_3
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後編 名将オシム氏はなぜ、レアルやバイエルンを断り日本のジェフ千葉を選んだのかに続く

写真/AFLO 撮影/苅部太郎