決して宗旨替えしたわけではないが、山下達郎が好きになっちゃった40代
昨今、世界でもてはやされているシティポップの、リアルタイムな最盛期はいつなのかというと、人によって見解が分かれ簡単には断じられないようだが、僕の感覚では、山下達郎が6thアルバム「FOR YOU」をリリースした1982年からの数年間なのではないかと思っている。
まさに僕の一生の音楽の好みが決定された頃だ。
当時から山下達郎を聴いていれば、僕の人生も今とはだいぶ違うものになっていたのは間違いない。
何しろ僕は、14歳前後の頃の強烈な音楽体験をいつまでも引きずり、僕にそうしたキワモノカルチャー情報を大量提供してくれた雑誌『宝島』の編集者を目指すようになった。
そして出版社・宝島社に就職し、なんやかんやあって今のこの仕事につながっているのだから。
そんな僕が今や“山下達郎大好き!”なのは、不思議といえば不思議な話である。
ダヴィドウィッツ氏の“14歳説”はなんだったの?と思うかもしれない。
でも実は、14歳の僕の頭の中には、潜在的な形で山下達郎サウンドが深くインプットされていたのかもしれないと、今になって思うのだ。
その頃の山下達郎は、今と変わらずテレビ出演を拒否していたため、新曲リリース時などのプロモーションはラジオに重点が置かれていた。
そして、小遣いの乏しい当時の音楽好き中学生にとって、ただで聞けるラジオは最重要メディアだったから、僕の耳には山下達郎の曲が、好まずともバンバン流れ込んでいたのだ。
テレビのCMでも頻繁に達郎サウンドが流れていたから、本当にすごいサブリミナル効果があったのではないかと思う。
僕は当時から、敵だ、嫌いだ、ダサいなどと言いつつも(ホントにすみません)、山下達郎の曲がとても気になっていたのだと思う。
でも、大人になってもずるずると厨二病を引きずっていた僕が、「やっぱ山下達郎はいい!」とちゃんと認められたのは40歳になってからだった。
そして、一度観念して聴きはじめてしまうと、途端にそのサウンドの虜となり、過去に置いてきた山下達郎を追い求め、ディスコグラフィーを一から熱心に聴いていくことになったのだ。
14歳の僕にとって山下達郎の曲や、永井博や鈴木英人のイラストに象徴されるイメージを含めた“山下達郎的”な世界は、とにかく非現実的だった。
そしてそれを好きだという人は、一種の見栄を張っているだけだと思っていた。
だが今は、そういう心地よい世界を否定してとんがり、やや露悪的なことを好んだ自分自身の方が、もしかしたらよほど見栄っぱりのこけおどしだったのではないかと思う。
もちろん、そのような自己分析をしたうえでもまだ、14歳の頃に好んで聴いていたガサツな音楽は相変わらず大好きで、シュガー・ベイブのアルバム「SONGS」と山下達郎の「CIRCUS TOWN」の間に、ザ・スターリンの「trash」を聴く、というようないびつなことを平気でやっているのだが。