二度めの対戦はそれから2日後の5月27日(岐阜市民センター)で、馬場がボストンクラブ (逆エビ固め)で猪木からギブアップ勝ち。この試合ではファイトタイムが10分から5分30秒へ半分に“短縮”されている点がひじょうに興味ぶかい。
3回めから6回めの4試合は同シリーズの四国、九州巡業中の6月10日(徳島市民会館)、6月16日(福岡・八幡市黒崎安川体育館)、6月20日(大分・別府市営温泉プール)、シリーズ終盤戦の6月28日(大阪府立体育会館)におこなわれ、それぞれ9分から11分のファイトタイムで馬場がフォール勝ちを収めた。
記録によると決まり手はいずれも“エビ固め”となっているが、馬場が猪木の両脚を抱えてフォールを奪う直前、いったいどんな大技を猪木にかけたのかははっきりしない。馬場はこの時点ではのちにトレードマークとなる十六文キックはまだ開発していない。
いっぽう“ギブアップ”による完敗モードから“エビ固め”というフォール負けへの変化は、猪木のほうから見ればやや善戦ということになるのかもしれない。
馬場は『第3回ワールド大リーグ戦』シリーズ中の同年7月1日、初のアメリカ武者修行の旅に出発。1年8カ月間にわたりロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク、カナダ東部といった人気マーケットを長期ツアーし、1963年(昭和38年)3月、『第5回ワールド大リーグ戦』出場のため一時帰国。このシリーズからリングネームを正式にジャイアント馬場と改名した。
馬場が渡米中だった前年1962年(昭和38年)の『第4回ワールド大リーグ戦』に続き、 猪木と大木金太郎も2年連続で同リーグ戦にエントリーした。海外遠征から凱旋帰国してメインイベンタークラスの仲間入りを果たした馬場とまだ若手グループのひとりだった猪木とは、この時点で番付のうえで大きな開きができていた。
このとき馬場は25歳で、猪木は20歳。この5歳の年齢差は、アスリートとしてもプロレスラーとしても両者の全盛期にわずかながらの時差を生じさせていくことになる。昭和40年代から昭和50年代、あるいは1960年代から1970年代にかけてつねに猪木が馬場を追いかける立場にあったのも、プロとしての経験値そのものよりもこの年齢差が微妙に関係していたととらえることができる。
宿命のライバル“馬場と猪木”の直接対決。全16戦の意外な対戦結果
プロレスの歴史を代表するライバルといえば、ジャイアント馬場とアントニオ猪木。リング上で一度も対戦したことがないと思われているが、実は若手時代には日本プロレスで何度もシングルで戦っている。では、その気になる対戦成績はどうだったのか。プロレスライターの斎藤文彦氏が彼らの戦いの軌跡をたどった著書『猪木と馬場』(集英社新書)から一部抜粋、再構成して紹介する。
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アメリカ帰りの馬場の知名度