だから、昭和育ちのプロレスファンの“ぼくたち世代”は少年期から青年期、成人となって中年のオヤジと呼ばれるまで、大げさにいってしまえば人生のほとんどを馬場と猪木の闘いを同時体験することに費やしてきたことになる。

1998年(平成10年)4月の猪木の現役引退、1999年(平成11年)1月の馬場の死去とその後の新日本プロレスと全日本プロレス、あるいは新日本プロレスと全日本プロレスから派生した数かずの後発団体の存亡や馬場の弟子たち、猪木の弟子たちのストーリーまでを追っていくと、その物語は半世紀を超えて続いた大河ドラマととらえることもできる。

つまり、馬場と猪木の物語は――力道山以後の――日本のプロレス史そのものであり“ぼくたち”の生きてきた昭和史、平成史なのである。

馬場と猪木が“宿命のライバル””永遠のライバル”として語り継がれるもうひとつの理由は、このふたりの“世紀の一戦”“夢の対決”がいちども実現することがなかったからだろう。
あまり役に立たないトリビアということになるかもしれないが、実現しなかったものとして一般的に認識されているシングルマッチは、じつは1961年(昭和36年)に6回、1963年(昭和38年)に10回、合計16回おこなわれていた。

同日入門でも年齢は5歳差の微妙な関係

シングルマッチ初対決が実現したのは、日本プロレスの“春の本場所”『第3回ワールド大リーグ戦』開催中の1961年(昭和36年)5月25日、場所は富山市体育館。このとき馬場は23歳で猪木は18歳。同日入門発表から1年1カ月後、同日デビューから8カ月後のことだった。

前座の15分1本勝負としてラインナップされたシングルマッチは、馬場が10分0秒、フルネルソン(当時の表記は羽交い絞め)で猪木からギブアップを奪った。

長身の馬場が猪木の背後に回り、長い腕を猪木の両脇から差し込み、大きな両手でクラッチを握りながら猪木の後頭部を上からぐいぐいと押さえつけ、猪木がもがき苦しんでいるシーンを想像してみるとおもしろい。この試合は映像にも写真にも残されていない。