引き続き、「RELIEFWEAR」の鳥羽由梨子さんのインタビューをお届けします。鳥羽さんは、養生のための衣服のブランド「RELIEFWEAR」(リリーフウェア)を2020年にスタートしました。「まさか服作りをするとは思わなかった。昔の自分が知ったら、驚くと思います」と、自身も予想もしていなかった現在までを辿ります。幼稚園教諭だったという過去や、別の世界が知りたいと飛び込んだデザインの世界。体調を崩した30代を経て、自分自身を健やかにすることから始めた「RELIEFWEAR」をきっかけに知った、新たな気づきとは。(この記事は全2回の2回目です。前編を読む)
「違う世界も知りたい」と桑沢デザイン研究所の夜間部へ
鳥羽さんは1980年、東京に生まれます。父親の仕事の都合で名古屋や山口、鹿児島などを転々としますが、中学2年生からは埼玉の川越へ。高校は、自由な校風に憧れて県内の私服高校へ進学します。高校卒業後は、社会学を学ぼうと受験しますが、希望した大学には不合格。受かったのが、幼児教育を学ぶ短大でした。
「将来何かになりたいとか何歳で何をしたいとか、具体的な夢があったわけでなくて。一浪してまで大学に入りたいという思いもなかったので、短大に進学しました。思いのほか楽しくて、さらに1年専攻科まで進んで、幼稚園教諭と保育士の資格を取得しました。卒業後は埼玉の東松山で幼稚園教諭になりました。1クラス25人ほどの子どもたちの担任を任されてやりがいがあって。子どもたちからは『先生、大好き!』なんて言われ、保護者の方からも感謝されて、先生だった3年間で仕事というものの面白さや楽しさを教えてもらいました」
一方で、体力的な厳しさを感じていたことや「違う世界も知りたい」「デザインを学んでみたい」という思いから、桑沢デザイン研究所の夜間部へ入学します。25歳になった時でした。
「雑貨が好きだったので、迷わずプロダクトデザイン科を選びましたが、実際は、リモコンや受話器をデザインしたり、模型を作ることになって。そっか、プロダクトって工業デザインだったんだ(笑)と想像していた内容とは違いました。でも、周りには同じようにデザインに興味がある仲間がいて、デザイン関連の仕事を目指している。夜間部だったのでダブルスクールや年齢が上の人もいて、それだけでも楽しい学びの時間でした。3歳上の夫もクラスメイトとして出会いました。桑沢に行っていなかったら人生が変わっていたかもしれないと思いますね」
セキユリヲさんのインタビューを読み、運命を感じる
卒業後の進路を考えていた時、書店で「子どもとデザイン」という特集記事でデザイナーのセキユリヲさんが掲載されている雑誌を見かけます。セキさんが幼稚園の体操服をデザインした時のインタビューでした。記事ではセキさんも短大で幼児教育を学んだ後、一般企業に就職。その後多摩美術大学の夜間部で学んだ後、デザイナーになったという経歴を読み、「自分とそっくり!」と運命を感じた鳥羽さん。意を決してセキさんの主宰するサルビアに電話をし、求人がないかを聞きました。
その時はスタッフの方から「ない」との返事でしたが、諦めきれず会社のホームページに公開されているアドレスに連絡をします。自分の簡単な経歴とサルビアの活動をとても素敵だと思っていることをメールで送りました。すると何日かして、セキさんからメールの返事が来ます。
「『作品集を持って、事務所に遊びに来てくださいね』と、気軽な感じで呼んでくださって、セキさんと会ってお話することができました。その後、1カ月ほどして『本を作るから作品作りの手伝いをしてくれませんか』と声をかけてもらって。サルビアの手仕事の本でしたね。それからも時々セキさんの本づくりや作品づくりに声をかけてもらえるようになり、自然な形でサルビアの活動に携わることになりました。たまたま産休の人がいてデスクも空いて、運も良かったのかもしれません」