東京オリンピックと深夜放送

田家秀樹さん(写真左)とスージー鈴木さん(写真右)
田家秀樹さん(写真左)とスージー鈴木さん(写真右)
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鈴木 私のラジオとの出会いは1975年、小学校3年生のときです。親にトランジスタラジオを買ってもらって。一番初めはABCラジオ(大阪)でネットされていたニッポン放送の『不二家歌謡ベストテン』。そして、FM大阪でネットされたFM東京の『コーセー化粧品 歌謡ベスト10』。前者のDJはタレントのロイ・ジェームスで、後者が作曲家の宮川泰でした。あの頃は歌謡曲のベストテン番組にすごい価値があって。エアチェック(同録)して聴いてましたね。

田家 僕は1950年代半ば、小学校2年生のときに、文化放送の『今週の歌謡ベストテン』を聴きながらノートにランキングをつけてました。《島倉千代子「この世の花」〇位》みたいに。ラジオがもっと身近になったのは中学生になって、洋楽を聴くようになってから。文化放送の『S盤アワー』はアメリカンポップスの番組で、エルヴィス・プレスリーがよく流れたんです。

鈴木 60年代後半からは、ニッポン放送『オールナイトニッポン』や文化放送『セイ!ヤング』、TBSラジオ『パックインミュージック』が始まって、ラジオの勢力図がガラッと変わりますよね。

田家 それらの深夜番組の登場は、ラジオだけでなく、日本のメディアの歴史の中で一大転機になったと言っても過言ではないです。64年の東京オリンピックの後にラジオが大不況になるんです。テレビが家庭に普及して、広告がテレビのほうに行き始めて、ラジオ局は営業不振に陥った。

そのときにいくつかのベンチャービジネスが出てきて、そのひとつが深夜放送でした。この不況期を乗り切るために、使ってない時間帯を活用しよう。でも、制作費もないから、有名なタレントを連れてこられない。だから、ディレクターやアナウンサーがしゃべるようにもなったんです。

鈴木 『ハローパーティー』や『セイ!ヤング』のパーソナリティを務めた文化放送のアナウンサー(当時)、土居まさるの人気はすごかったらしいですね。

田家 「ヤァヤァヤァ! 君は起きているかい?」という友達のような軽快なトークを始めたのは土居まさるです。それが、深夜放送を聴いている若者の親近感に繫がっていくんですね。

ラジオをラジオたらしめている重要な要素がいくつかあって。ひとつは、同じ時間に違う場所で、同じものを聴いていることで生まれる連帯感。もうひとつは、手紙のやり取りができるというコミュニケーション。その同時性と双方向性、そして、情報源としてのラジオですね。新しい音楽の情報はラジオから流れてくるんだっていう。

ミュージシャンがパーソナリティとなって自分で新譜を紹介したり、近況を生で語るようになった。しゃべり手がどういう人で、何を考えて、今こういうことをしゃべっているのか。リスナーにとってはしゃべり手の言葉が学校の先生の言葉よりも響いてきて、自分のことを一番わかってくれる相手になってくる。深夜放送はラジオの魅力のすべてを備えていますよね。

鈴木 おっしゃるとおりです! 僕は80年代後半に上京して、トランジスタラジオで『オールナイトニッポン』2部を聴くようになるんですけど、アナウンサー上柳昌彦の逸話が残ってますよね。新宿ワシントンホテルからの放送の際に「この放送を聴いてる人、部屋の明かりを点けたり消したりして!」と呼びかけたところ、周辺に住むリスナーが部屋の電灯を点滅させたという。ああいう〝共犯関係〟がいいんですよね。田家さんが放送作家としてラジオ業界に入られたのはいつからですか?

田家 71年、『セイ!ヤング』からですね。当時、文化放送では『落合恵子のサウンドフォーク』も担当していたんですけど、落合さんの口調、イントネーションが素晴らしかった。優しくて柔らかくて、凜として力強く、可愛らしかった。

フリートークもポエジーで魅惑的でね。忘れられないのは、『こんばんは落合恵子です』という番組。ふるさとの話をしてたのかな。しゃべり終わった後に、ジョン・デンバーの「カントリー・ロード」がかかって、僕は思わず涙が流れた。落合さんのしゃべりから曲に移る〝間ま〟が素晴らしかったんです。