小泉政権でも異論は消えなかった

「そのうえで強いていえば、元来の自民党は政策上の異論がぶつかり合うようなところでした。たとえば冤罪を生んだ再審制度を見直す刑事訴訟法の改正案を巡っては、法務省案に対して党内で稲田(朋美)さんをはじめとした論が噴出しました。

以前の自民党ではあのようなことは珍しくなく、日常茶飯事でした。とくに思い出すのは、小泉純一郎内閣のときです。あのとき私は党にいたから、それを肌で感じました。小泉内閣で打ち出した政策金融の改革は、必ずしも政権の一大イシューでなく、自民党もそれ一色でもありませんでした。だからここでも反対意見が出た」

自民党は独裁政権、人気絶頂の内閣総理大臣の時代にあっても、異論を抱える懐の深さがあった。強く林の記憶に残るのが小泉純一郎政権時代だという。

小泉は内閣支持率が8%前後に急落した森喜朗の退陣を受けた2001年4月、「自民党をぶっ壊す」というキャッチフレーズとともに首相に昇り詰めた。前号に書いたように山崎拓、加藤紘一とともにYKKと呼ばれた党内の有力議員ではあったけれど、常に3番手扱いで、首相になるとは政界の誰もが予想していなかった。

このときの自民党総裁選でも、小泉は森派、加藤派、山崎派の支持を取り付けていたものの、そこに竹下派の流れを汲む党最大派閥の経世会が立ちはだかった。いわゆる派閥の壁を打ち破ったのが、国民的な人気の高い田中眞紀子の応援であり、小泉人気は小泉旋風と表現された。

結果、総裁選で小泉が最大派閥を率いた橋本龍太郎をうち破り、小泉が首相に就く。ある意味、ここが日本のポピュリズム政治の始まりといってもいい。反面、自民党内は小泉一色にはならなかった。

そしてそれまで自民党の中心にいた最大派閥の橋本派を意識した小泉は、構造改革と称する金融再編を打ち出す。小泉政権で象徴的に語られる郵政民営化もその一環といえるが、それだけではない。

終戦後から高度経済成長期にかけて日本復興のエンジンとなってきた政府系金融機関もまた民間の都市銀行などの業務を圧迫していると批判され、小泉構造改革のターゲットになる。

小泉首相直轄の諮問機関である経済財政諮問会議が小泉構造改革の音頭を取り、欧米の市場開放圧力とともに政府系金融機関再編の必要性を訴えてきた。だが、実のところ党内には根強い反発もあった。

2001年4月20日、2001年 自民党総裁選での橋本龍太郎と小泉純一郎。写真:日刊現代/アフロ
2001年4月20日、2001年 自民党総裁選での橋本龍太郎と小泉純一郎。写真:日刊現代/アフロ