『夜の恩寵』の神話性

赤坂 僕ね、しをんさんの『夜の恩寵』を読ませていただいて、最終話の「夢の子ども」にたどり着いた時に、すごく神話的な物語だなと感じました。全部で五編、ちょっとずつ絡まり合う短編が微妙に繋がっていきますよね。最初はまったく神話的なお話だとは思わずに読んでいたんですよ。むしろ途中までは奇想天外さが漫画的だなと思っていたんだけれども、最後の「夢の子ども」に至ると、それまでは奇想天外に見えていたものが全部繋がってきて、あれ、これ漫画的というよりは神話的なお話になっているな、と思ったんです。神話のなかに出てくるような母親とか巫女とか兄弟といったものが、ここに沈められているんですよね。きれいなお母さんと義理の息子の話でもありますけれど、神話では近親相姦もひとつのテーマですからね。あのお母さんは、まずいよね。
三浦 まずいんですよ(笑)。
赤坂 みんな、しをんさんが漫画が大好きだと知っているから、書かれる小説も漫画的だと思いながら読まれるかもしれないけれど、僕は『夜の恩寵』には、神話の影みたいなものを感じました。そういうふうに読むとあらためていろんなものが見えてきて、僕の中で豊かな作品になりました。
三浦 すべてのストーリーというか物語って、結局神話的なものがあるんでしょうね。
赤坂 そこに繋がっていると、やっぱり作品って豊かになるんですよね。
三浦 無意識にそうなっちゃうんだとも思うんですよ。物語って、何かを要約したり単純化したりする作用がある。この複雑な世界を単純化し、要約することで物語になるともいえますね。でも、神話は混沌としている。だから神話と物語って、根本では繋がっていても、表出の仕方が違うなと感じます。
 宮崎駿さんの作品を赤坂さんが読み解いた時の複雑さや豊穣さって、やっぱり物語というものからいかに逸脱していくかというエネルギーが生み出したものなのかな、という気がします。アニメというものだからこそ逸脱できるというか。言語だけで表現する小説の場合はなかなか単純化の作用から逸脱していくことが難しいんですね。身体性がないからなのかな、とも思う。文楽(人形浄瑠璃)といった語り物の系譜のものって、ストーリー自体は単純な勧善懲悪だったとしても、視覚と聴覚にも訴えることによって、物語の単純さみたいな軛から解き放たれて、神話の世界の混沌へと近づいていくことができているなと思うんです。でも、言葉だけで成り立たせている小説は、そういうことがどうしてもできにくいというのがありますね。
赤坂 僕も言葉で表現する人間なんでよくわかるんだけど、言葉って辛気臭いんだよね。
三浦 そうそう、そうなんです。
赤坂 絵画なんかでは、線の喜びとか、この色いいんだよなという、それだけで救われたりするのに。
三浦 漫画もそうですよね。
赤坂 漫画もそうだし、アニメもそうだし。それに対して言葉だけの表現メディアは、その重力に抗うのがすごく難しい。『夜の恩寵』でいうと、一人の女性が夢の中で妊娠して出産して子育てする「胡蝶」という話がありますよね。現代の話として読むと奇想天外なイメージだけれど、神話として眺めたら、こういうことって全然唐突でもないですね。神話の世界では、たとえばヤマトタケルが美しい女性に変装して舞って熊襲(くまそ)を油断させ、いきなり殺すじゃないですか。いきなり殺してしまうって倫理に反しているけれども、神話の世界では当然のようにそういう荒唐無稽なことが起きる。それに、ヤマトタケルの神々しいまでの美しさを言葉で描こうとしたら大変ですよね。
三浦 大変です。

三浦・宮崎作品のなかの巫女

赤坂 ちょっと訊いてみたかったことがあります。これ、五編の短編で編まれていますけれど、巻末の初出の日付を見たら、最初に書いた「神馬に乗る女」が二〇一四年で、次の「胡蝶」が翌年。その後の「夢見る家族」は二〇二三年で、コロナ禍以降ですよね。最後の「夢の子ども」は二〇二四年に書かれたもので、ここでいろんな方向を向いていた短編が、力業でひとつの物語として収められていく。最初の二編を書いた時に、こういう作品集を思い描いていたんですか。
三浦 はい。連作にしようとは思っていたんです。でも二話目はこんな話で、四話目はこうして、などと細かく考えていたわけじゃないんです。細部は書きながらですね。
赤坂 「神馬に乗る女」は、主人公の輝久に父親の再婚によって喜久美さんというきれいなお母さんができて、最後に輝久はその喜久美から逃げていく。それで、四話目の「金の糸」では神話的な兄弟が出てきて、実はこの主人公の兄が輝久なんですよね。弟側の目線から輝久が描かれている。最後の「夢の子ども」でまた輝久が出てきて、美しくて魅力的な継母の暴力から逃れていったはずなのに、結局つかまってしまって……という、そこまで見えていたの?
三浦 そうです。輝久が最後にどうなるのかは考えてあって、それが最終話になるだろうなって思っていました。でもそれじゃあ輝久が可哀想だから、可愛い弟も授けてあげよう、とか。
赤坂 途中で何年もの空白ができたのはどうして?
三浦 私が体調を崩して、ほかの仕事との調整もあって、スケジューリングがうまくいかなくなっちゃったんです。でも、当初のイメージどおりの本になっています。
赤坂 巻末に、どの話もテーマが「カリスマ」だと書かれてあるじゃないですか。僕も『ナウシカ考』なんかを書いた時に、カリスマとはなんだろうと気になって追いかけたことがあるので、そうかと思って。この本の中では二人の巫女的な母が出てきますよね。「神馬に乗る女」などに出てくる美しい継母の喜久美と、「胡蝶」と「夢見る家族」に出てくる、夢の中で妊娠し、出産し、子育てをする未千。カリスマという意味では喜久美さんのほうが当てはまりますよね。いきなり神が降りてくるようになったといって、人の身体の不具合を治したり、失くし物のありかを当てたりするようになり、小さな教団まで作られていく。僕はこれ、怖い小説だなと思いました。人が人を精神的に支配して、操ることができるという意味で、やっぱりカリスマって怖いんだよね。カリスマ本人はいたって無邪気、あるいは無邪気なふりをしているのかもしれない、それでもやる時はちゃんとやるというか。喜久美さんも無邪気に見えるけれども、ちゃんと後継者を確保しようとはかりごとをするんですね。そういう美しくて無邪気そうな女性にたぶらかされるというか、してやられるというのは我々の社会の中でもよくあることです。ただ、巫女って一般的には、無垢であったり処女であったりするんだけれど、この喜久美さんは、そうした巫女像を蹴散らすように、禁忌を当たり前に破っていくじゃないですか。
三浦 そうですね。
赤坂 その巫女像の描かれ方が、怖いというふうに感じました。柳田国男の『巫女考』では、巫女(ふじょ)には宗教的な役割と男たちに春をひさぐ役割があって、宗教とセックスと商業がセットになっていたと指摘されています。つまり、聖なる神社で神に奉仕していた巫女が堕落して、諸国をさすらいながら売春をするようになったと、巫女の歴史が語られています。喜久美さんも、巫女だけれど平気でセックスもするし、子供も産むし、それでも聖なる存在としての輝きを失わない。なかなか強靭な巫女だよね。……というふうに、僕は喜久美さんの姿から勝手に柳田の『巫女考』を思い出したり、神話を思い出したりしてドキドキしていました。
三浦 今時の巫女はこうなんですよ。それに、喜久美って、普通の人かもしれませんよ?
赤坂 たしかに。
三浦 これは輝久の一人称で書かれてあるから。輝久がそう受け取って、そう見ているというだけが書かれてあるので。
赤坂 そういうところが怖いんですよ。巫女でいうと、宮崎さんのアニメにも、ナウシカ的な無垢な巫女みたいな存在もいれば、同時に「もののけ姫」に出てくるエボシ御前なんかは、捨てられた遊女たちを集めて秩序を攪乱しようとしている。歴史の中のタタラ場って女人禁制なのに。
三浦 エボシ御前もそうだけれど、タタラ場の女の人たちはもう自分で主体的に選ぶ女になっていて、性的搾取されることを自分の意思で拒絶している人たち、ということだと思うんですよね。自分の好いた男とはいいけれど、そうじゃない人に何かされるのは嫌だといって、それを実現している。宮崎さんの描くヒロインって無垢な少女みたいに言われがちで、そういう作品も初期にはあるけれど、やっぱりその胡散臭さみたいなものを自覚しているし、それがかえって少女というものを搾取していることへの反省といった視点が絶対にありますよね。
赤坂 あると思いますね。
三浦 だから無垢な巫女とは違う女性像をどんどん描いていらっしゃると思うんです。そこも非常に誠実だと思います。「君たちはどう生きるか」の二人の母親も、産むということを主体的に選択しているし。
赤坂 そういう強さは大切だと僕も思います。
三浦 「もののけ姫」も、自分たちで選択した結果の疑似家族としてみんなでやっていっている。それもまたいいなと思うんですよ。
赤坂 それね、僕は「ハウル」も最後は疑似家族だと思います。
三浦 そうそう、そうですよね。
赤坂 あれはもうハウルの城じゃなくて、ソフィーの家になっている。それで、最後にあの家に集まっているのは完全な疑似家族ですね。観ているほうが宮崎さんのそういう冒険に気づかずに、自分の先入観で引きずりおろそうとしているところがあると感じます。そういう問題提起はしてみたいなと思っていました。
三浦 宮崎さんには、そういう先進性がちゃんとあるんですよね。

「豊かな読みの世界への誘い」赤坂憲雄×三浦しをん『宮崎駿の詩学』『夜の恩寵』W刊行記念対談_6
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