お人好しホテルマンと書道家がコンビ結成

「好きに理由はいらん」けれど、あえて読書を好きな理由を答えるならば「自分以外のひとの人生や感情を知り、想像することができるからかな」とエッセイ『のっけから失礼します』(6月20日文庫)で三浦しをんさんは綴っている。読書はとても性に合う「外界へ開かれた窓」なのだと。その言葉どおり、しをんさんの小説はいつも私たちに未知の景色を見せる窓となってくれる。

駅伝に文楽、辞書編纂に植物学。これまでさまざまに専門分野を愛する人たちを描いてきたしをんさんが、最新作『墨すみのゆらめき』で挑んだモチーフは〝書〟。お人好しホテルマンが仕事で出会った、ある書道家の物語である。

駅伝、文楽、辞書、植物学……次に来るのは“書”!? 「好き」を全肯定する三浦しをん作品の魅力_1
『墨のゆらめき』(新潮社刊)|オブジェ制作(カバー)/ shikafuco|装幀/石井勇一(OTUA)
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ホテルで行われるイベントの招待状を手配するのもホテルマンの仕事。新宿の老舗ホテルに勤める続力(つづきちから)は宛名書きを依頼するため、遠田薫(とおだかおる)という書道教室を営む男を訪ねる。お客さまが遠田を指名したのは、丁寧で格調高いがおもしろみのない他の候補者と違って、彼の文字に遊び心が感じられたから。実際、遠田は子どもたちに教えるときも、正しく美しく書くことより、その文字にどんな想いをこめて線を躍らせるかを重視する。

続がまのあたりにした風変わりな授業風景は、読んでいるこちらも筆をとって自分なりの文字を表現してみたい、と思わせるものだった。その描写には理由のいらない「好き」の萌芽がちりばめられていて、ああ、だからしをんさんの小説を読むのは好きなんだ、と物語がほとんど展開していないうちから胸がときめいてしまう。

ホテルマンとして重要な性質である「話しかけやすさ」を人一倍そなえた続は、押しにも弱い。依頼と打ちあわせにきただけなのに、なぜか小学生の悩み相談に一緒に乗り、遠田が請け負う代筆業の文面まで考えるハメになる。というのもこの遠田、どんな人間の文字も模倣できる腕前をもつのに、文章を考える能力がまるでない。

一方、続には、多種多様な客のリクエストに応えてきたホテルマンとしての経験と、見ず知らずの人に話しかけられまくる性質から培った臨機応変な対応力があった。いたいけな小学生の依頼人を悲しませるわけにもいかず、無我夢中で手を貸した結果、その場の思いつきですらすらと文章をつくりあげていく続と、文字を変幻自在に操る遠田の代筆業コンビが誕生することになったというわけである。