「東京から突然やってきたミュータント」といった印象だった加藤和彦
ザ・フォーク・クルセダーズ(以下フォークル)の加藤和彦が、当時誰も思いつかなかったナンセンスでコミカルな歌『帰ってきたヨッパライ』で、280万枚という記録的なヒットを放ったのは1968年、20歳の時である。
そこから遡ること1965年の夏。京都府立医科大学の学生だった北山修は、雑誌「MEN’S CLUB」の読者投稿欄に掲載された、加藤からの呼び掛けに目をとめた。
フォーク・コーラスを作ろう。当方バンジョーと12弦ギター有。フォークの好きな方連絡待つ。
北山は、「これだ」と思った。しかも投稿主の住所を見ると、自宅からは自転車で15分ほどの近距離だ。そこですぐに自転車に乗ってその家を訪ねてみると、家の中から物凄く背の高い男が出てきた。
180センチある長身の北山よりもさらに高いその男は、口が重くて人見知りする感じがした。
彼は東京で高校時代を過ごし、父親の仕事の転勤で京都に引っ越して来たばかりでした。アイビールックに身を包み、仏教系の龍谷大学に通っているという。不思議な雰囲気を持つ彼は、まるで“東京から突然やってきたミュータント”といったように、私には印象づけられました。
加藤に会って、北山が何よりも驚かされたのは、京都ではなかなか目にできない珍しい楽器をたくさん持っているだけでなく、フォークソングについて幅広い知識を有していたことだった。高校3年生の時には、外国のフォークソング雑誌を熱心に読んでいたという。
英語の雑誌を高校生が読んでいること自体、当時はあまり考えられないことだった。親がそんな生活スタイルを許していたということが、ユニークな英才教育に思えた。
しかし、自分にも通じるところもあったので、一緒にバンドを組むことにした。
後に推測したことですが、自分の高い身長を持て余していたようです。体をうまくコントロールすることができない。自分のサイズにあった服がない。どこにいても目立つ。精神と身体のバランスに急激な変化と狂いが訪れる青年期において、彼自身も所在なくていろいろな悩みを抱えていたようです。私も同様で、青臭い性的コンプレックスや劣等感も一揃いあって、特に心身のまとまりの悪いところで、彼と気が合ったのかもしれません。
いっぽうの加藤は、フォークルでの活動とは別に、友人の松山猛(後に作詞家や編集ライターとして活躍)と二人で楽しみながら、よく夜中に集まって歌を作っていた。やがてフォークル解散後のソロ活動を経て、サディスティック・ミカ・バンドを結成してから、改めて二人はソングライティングのコンビを組むことになる。