中国の過剰な生産を受け入れるスペースはもう残っていない
「中国は輸出から成長を生み出すには大きすぎる」
この言葉は重い。
小さな国であれば、輸出で外貨を稼いで成長モデルを描くこともできるだろう。しかし中国は巨大すぎる。この巨体が自国の胃袋(内需)を満たすことなく、他国の市場だけで腹を満たそうとすれば、世界中の市場がパンクしてしまう。
ゲオルギエワ氏の指摘は、物理的な限界を示している。世界には、中国の過剰な生産を受け入れるだけのスペースはもう残っていないのだ。
ここで少し、根本的な問いを立ててみたい。そもそも、経済活動の目的とは何だろうか。モノを作ること、それ自体が目的なのだろうか。
違うはずだ。
人々が必要とするモノを作り、それを届けることで生活を豊かにする。それが経済の本質であるはずだ。
「必要とされているから、作る」。これが健全な順序だ。
しかし、今の中国で行われていることは順序が逆転している。「計画があるから、作る」「工場があるから、作る」。そこに「誰が使うのか」という視点は抜け落ちている。
需要を無視した供給は、経済活動ではなく、単なる資源の浪費だ。
実質的な富は何も生まれていないことに、指導部も気づいている
誰も乗らないEVを大量に生産し、原野に放置する。これは「生産」という名前を借りた「破壊」に近い。貴重な金属資源を使い、エネルギーを消費し、結果としてゴミを生み出しているだけなのだから。
習近平氏が「無謀な行動」と呼んで激怒したのも無理はない。数字の上ではGDP(国内総生産)が増えたように見えても、実質的な富は何も生まれていないことに、指導部も気づいているのだ。
政府や権力者が、市場のメカニズムを無視してコントロールしようとするから、こうした歪みが生まれる。
「今年はこれだけ成長しろ」「この分野に投資しろ」と上から命令を下す。現場は命令を守るために、売れる見込みのないモノを作り、数字の帳尻を合わせる。
市場とは、人々の「欲しい」という欲望と、「売りたい」という意欲が出会い、適正な価格が決まる場所だ。この「見えざる手」の調整機能を麻痺させ、政府の「見える手」で無理やり動かそうとすれば、必ずどこかに無理が生じる。
1兆ドルの貿易黒字は、その「無理」が極限まで達し、国境から溢れ出した姿なのだ。













