「お前はどうせ今年でクビじゃ」

プロ3年目は、一軍に一度も呼ばれることなくシーズンを終えた。そして4年目の2008年もわずか6試合。

その間、春のキャンプ、秋のキャンプと一軍に帯同すれば、その度に「打ち方を変えろ」と言われ続けていた。「変えてるのに……」。本当にどうしたらいいかわからなくなっていた。

2009年は、勝負の年とも言えた。

「お前はどうせ今年でクビじゃ。ワシもわからんけどな」

この年、野村監督から何回も言われた言葉だ。残念だけど、野村監督には苦い思い出しかない。「後悔しかない、4年間」だったと言える。

平石洋介氏。1980年4月23日生まれ。大分県出身。PL学園から同志社大学、トヨタ自動車を経て、2004年ドラフト7位で東北楽天に入団。11年限りで引退後は同球団でコーチ、二軍監督、監督を歴任。20年から2年間は福岡ソフトバンクのコーチ、22年は西武の打撃コーチとなり、23年に埼玉西武のヘッドコーチに就任。24年限りで退団した。(写真/杉田裕一)
平石洋介氏。1980年4月23日生まれ。大分県出身。PL学園から同志社大学、トヨタ自動車を経て、2004年ドラフト7位で東北楽天に入団。11年限りで引退後は同球団でコーチ、二軍監督、監督を歴任。20年から2年間は福岡ソフトバンクのコーチ、22年は西武の打撃コーチとなり、23年に埼玉西武のヘッドコーチに就任。24年限りで退団した。(写真/杉田裕一)
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ただ、指導者として考えると大きな影響を与えてくださった、と断言できる。そのひとつは、言葉を選ばず言うと「こうはなりたくない」という反面教師として。もうひとつは、「考えて野球をする」ことの重要性とその分析だ。

後者については、野球ファンの方ならよく知るところだろうが、簡単に記しておく。

ヤクルトスワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)の監督時代にチームを4度のセ・リーグ優勝と3度の日本一へと導いた。

1999年に当時、Bクラスが当たり前だった阪神タイガースの監督となり、3年連続で最下位だったものの赤星憲広さんら若手選手を積極的に起用するなど、のちに強者として返り咲くチームの礎を築いた。

野村監督はただチームを強くするだけではなく、人を有効に生かす術にも長けていた。能力の高い選手や現役として絶頂期を迎えた選手のみならず、自由契約などで他球団から移籍してきた選手の特徴を引き出し、生きる道を与える。

「野村再生工場」と呼ばれ野村監督の下で再び花開いた選手も少なくなかった。この根源にあったのが考える野球。プロ野球界で一世を風靡した「ID野球」である。

Important Data──「重要なデータ」の頭文字をとった野球は、野村さんがイーグルスの監督となった頃にはすでによく知られていたが、野球というスポーツを多角的に分析する眼力はさすがだった。

どんなプレーにも根拠を持つこと。それは自分のプレーやチームの野球のみならず、相手チームも同じように分析する。

戦術面のみならず、状況に応じた選手の心理まで紐解きながら、より根拠を深掘りさせていく。野村監督は「野球とは頭脳労働だ」と言って「考える」重要性を説いた。

僕自身も学生時代から「能力だけで野球はできない」と頭を使うことを心掛けていたから、そこにある哲学や分析は学びが多かった。