なぜ努力は報われなくなったのか
「トンビがタカを生む」ということわざがある。
しかし、今の日本でどれほど現実味があるだろうか?「教育格差」と「経済格差」が絡み合い、貧困の連鎖が固定化されつつある。所得の低い世帯ほど子どもの大学進学率は低く、生涯賃金にも顕著な差が出る。
実際、東大生家庭の過半数は世帯年収が950万円を超え、子育て世帯の年収平均値722万円と比べても、その年収の高さが際立っている。
僕自身は中卒の親の家庭から東大に進んだので、周りとの経済格差をはっきり感じていた。海外留学などで視野を広げる選択肢はなかったし、学費と生活費のために、アルバイトにかなりの時間を費やした。
それでも、僕は恵まれていた。家庭の収入は低かったが、教育熱心な親のおかげで、貧困の連鎖から抜け出すことができた。だが、誰もがこうした環境に恵まれるわけではない。
少し前に、「親ガチャ」という言葉が流行した。生まれ育った環境で、子どもの人生が大きく左右される現実を皮肉った言葉だ。格差は昔からあったが、その深刻さが広く認識されるようになったのは、近年のことだ。
一方で、こんな声もある。
「昔はみんな貧しかった。でも努力して豊かになった」
「環境のせいにして甘えるな。自己責任だ」
でも、今の社会の貧困は、本当に努力不足や甘えだけの問題なのだろうか?
経済学者の小野善康氏は、日本社会が「モノ経済」から「カネ経済」に移行したことで、格差の性質が変わったと指摘する。
かつての「モノ経済」の時代には、人々が欲しがるものが多く、生産能力が追いつかなかった。勉強したり技術を身につけたりすれば、自分の能力を活かす場はそこら中にあった。貧しい環境にいても、努力が報われる余地があった。この時代に限っては、自己責任論が一定の説得力を持っていた。
ところが、「カネ経済」の時代になると、社会全体に生産能力が余り始めた。需要は減り、チャンスは減り、努力を活かす場所が減っていった。格差を努力で埋めるのは難しく、親ガチャが、かつてよりずっと重くのしかかる時代になった。
こうした閉塞感のなか、一発逆転を求める気持ちが芽生えるのは、決して不思議なことではない。努力すれば報われる前提が崩れた社会では、ギャンブル的な投資に惹かれるのもむしろ自然な反応だろう。
それを“自己責任”で片付けてしまえば、この時代に特有の構造的な問題を見落としてしまう。
この構造が「お金の不安」をふくらませ、投資をギャンブル化させ、貧困から抜け出しにくい社会をつくり上げている。
しかし希望もある。人口減少という現実が、皮肉にも社会を変えつつある。個人の努力が、再び報われる時代が到来しようとしている。













