「ミッション」のない共同体は絶対に持続しない
内田 僕は大学で管理職を長くやっていましたけれど、そうすると部下がいろいろと仕事上の提案を持ってくるわけですよね。「部長、これどうしたいんですけれど、どうしましょう」って。僕は何についても「好きにしていいです、やってください」と言っていました。「失敗したら僕が責任取りますから、やってください」って。中身の精査もろくにしないで即答していました。だって、彼らが一生懸命考えてきた提案なんですから、それなりの必然性があるに決まっている。でも、多少瑕疵(かし)のある提案であっても、上司が「責任は僕が取ります」と言うと、失敗はしないものなんです。
それを「やってもいいけれど、俺は知らないからね。お前責任とれよ」って言うと、やっぱりうまくゆかない。「失敗しても君の責任は問わない」と言うと失敗しない。「失敗したらお前の責任だ」とストレスをかけると失敗する。そんなの、当たり前なんです。だから「親切な家父長」というのは組織論的にも合理的だと僕は思っています。
李 今回の本でも書いたんですけど、たしかに組織のヒエラルキーというのは弊害が多いんですけど、でも、よくリベラルとか左派の人たちが言うような「まったくフラット」という組織もうまくいかない。
内田 絶対うまくいかないです。
李 これは人類学者のヘンリックが言っているんですけど、ひとつは「支配型ヒエラルキー」といって、その名の通り上の人が支配している。そうすると、みんな疑心暗鬼になって、有益な情報があっても提供されなくなり、組織は自壊していく。他方で「尊敬型ヒエラルキー」というのもあって、これは上に立つ人が、部下が失敗しても叱責しない。そうすると積極的に情報が共有されていって、上司の方にも革新的なアイデアが上ってきてうまくいく。
「コモンの自治」というと、どうしても「フラットな組織」を思い浮かべるかもしれないですけれど。
内田 フラットというのは無理だと思います。以前にある講演会で、「どうやって相互扶助的な共同体を作ったらいいのでしょうか?」という質問を受けたことがあります。その人はシェアハウスを運営していて、そこには数家族が参加している。その中に高齢の夫妻がいる。若い家族に比べると、家の管理についての貢献度が低い。お掃除も手伝ってくれないし、子守もしてくれない。ほかの若い家族同士は相互扶助ができているのだけれど、この高齢の夫妻は共同体に「フリーライド」している、と。どうしたらいいか訊いてきたので、「申し訳ないけれど、そんなものは相互扶助共同体ではありません」とお答えしました。
「誰がフリーライドしているか」とか「自分は割を食っている」というような言葉が出てくる共同体は決して長くは持続しません。自分が出した分だけのリターンを求めていいというような集団は共同体にはなりません。
共同体というのはある「ミッション」があって、そのミッションの実現のために成員たちが「持ち出し」を受け入れることで初めて成立するものだからです。
「持ち出し」の質や量については、客観的な基準があるわけじゃありません。それぞれの私権・私財の「一部」を差し出す。はたから見て「フリーライドしている」と思える人でも、主観的には「自分ばかりが持ち出し」で、「ずいぶん割りを食っている」と思っているかも知れない。そんなことはわからない。
僕がこうしてボーッとしていられるのは、「道場が何のためにあるか」ということは、「風雲自在」とか「天下無敵」いう言葉ですでに提示されているからです。この共同体の目標ははっきりとしている。でも、その目標を達成するために自分は何をするのかはひとりひとりに考えてもらうしかない。僕がいちいち指示する必要なんかないんです。
構成/高山リョウ















