「被害者の目」から見えている世界

内田 社会的な弱者を「理非善悪の査定者」の地位に祀り上げるということがありますね。この世界で最も収奪され、最も迫害されている者が「最も正しい」というのはかなり危ういロジックだと思うんです。このルールを採用すると、「誰が最も苦しんでいるか、最も収奪されているのか」を競うようになる。

「誰が最も弱者なのか」という受難者の地位の奪い合いが始まる。これはレーニンの『帝国主義』以来のロジックなんです。「階級社会で最も抑圧されている人間こそが階級社会の実相を最もよく知っている。だから革命の主体となりうる」という。

でも、このテーゼは半分正しいけれど、半分は当たっていない。この社会で激しく収奪され、苦しんでいる人がいる。その苦しみを知って欲しい、収奪の構造を変革して欲しいというのは正当な要求です。被害者の苦しみを理解するために、人々が想像力を駆使するというのは端的によいことです。

でも、それは「最も収奪され、最も抑圧されている者が最もよく世界の実相を知っている」という言明には結びつかない。最も収奪され、抑圧されている人たちは、あまりに激しく人間的可能性を奪われているために、自分たちの置かれている政治的状況を言葉にしたり、それを改革するための道筋について提言したり、運動を組織することができない。変革する能力まで根こそぎ奪われていることを「収奪」とか「抑圧」とか呼ぶわけですから。

その結果、誰かが「収奪されている者」の代理人・代弁者になって、「彼らに代わって」世界の実相を説明し、変革の道筋を指示することになる。この「代理」の仕組みについて、人々はあまりに無警戒だと僕は思います。

「被害者史観」はレーニン以来100年以上生き延びています。そして、実存主義も、ポストモダニズムも、フェミニズムも、ポストコロニアリズムの「サバルタン史観」も、どこでもこの定型が繰り返されている。そして、「最も収奪されている者」ではなく、その「代理人」が理非を判定し、正義を執行する権利を要求する。この「被害者史観」の危うさを誰も正面から批判しない。そのことについてはどう思われます?

 僕も一応マイノリティな側面を持っているので、僕のまわりには在日朝鮮人のことを研究されている方もいらっしゃるんですけど、すごくいい人たちなんです。

だから僕と話す時、僕が先生で向こうが生徒、「生徒」という言葉でも生ぬるいぐらいに、皆さん、自分を下げて接してくるんです。在日の問題に関しては僕が真理を知っていて、自分たちは無知というか、こっちの顔色をうかがうと言うと大げさなんですけど、自分から線を引いて接してくる。でも絶対的にこっちが正しいと思われると、僕としてもちょっと困るんです。そんなことないですよ。

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さっきも言ったように、普遍的な真理が存在したら人間はコミュニケーションを取る必要がなくなるわけで、もし僕が何らかの真理を持っているなら、どんどん人が遠ざかっていってしまう。もちろん僕にコミュニケーションを取ろうとして来てくれる人は関心を持っているからいいんですけど、それ以外の、「差別ってなんとなくよくないなと思いつつ、専門に研究するほどでもない」みたいな人たちが引いていっちゃうんです。

だから「被害者史観」や「受難者意識」というのは、すごくもったいないことです。その当事者が誰であれ、今まで第三者というか、外野の人たちの存在をあまり考えてこなかったのかなというふうには考えます。

今のアメリカなら、マイノリティと言われる有色人種や移民ではない、「白人」で「男性」の人たちが「俺たちが被害者だ」と言って、それを原動力にトランプ政権が誕生した。「被害者史観」は、現在のトランプ現象にも関係していると思います。