極言すれば広義のすべてのゲームは「受験」の亜種

「ゾーン」の話に戻ると、フィギュアスケートの羽生結弦選手がどこかのインタビューで、「ゾーンというのは意識でコントロールできるわけではないが、『擬似ゾーン』ならばいつでも意識的に作り出すことができる」と言っていた。

これも受験と同じである。自分の勉強法や目の前の問題の価値を信じていることは大前提として、受験勉強にも気分が乗る日と乗らない日、調子の良い日と悪い日がある。そういう時、「擬似ゾーン」に入るための儀式を確立しておくと、悪い日にも悪い日なりの勉強ができるようになる。

この方法は何でもいいと思うが、私の場合は小学校時代にそろばんを習っていたこともあり、勉強前に頭の中でゆっくりと「65」を足し続けるというルーティンをやっていた。65、130、195、と足していき、1300もしくは1950あたりになるまで続ける。

すると頭の雑念がある程度取れ、すっきりした状態で勉強に入れる。この方法は本当に人それぞれだと思うので、ぜひ自分に合ったルーティンを見つけてみてほしい。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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私の考えでは受験とスポーツは似ており、執筆とスポーツも似ている。したがって受験と執筆も似ている。極言すれば広義のすべてのゲームは「受験」の亜種であり、受験に使えた方法は他のすべてのゲームで応用可能である。

村上春樹『ノルウェイの森』の主人公ワタナベは、同じ大学に通う女性に「仮定法過去と仮定法現在の違いを説明できるか、それができることが何の役に立つか」と聞かれた時、「何かの役に立つというよりは、物事を系統的に考える訓練になる」と答えている。

私なりに言い換えると、これは思考のフォームを作るということであり、またその前段階である努力のフォームを作ることである。

もちろん村上春樹はその作風からして受験勉強がどうのこうのという話はほとんどしないが、この訓練を受験勉強の土俵で行い、そして一定以上の学歴を手に入れることは、現実的に「役に立つ」と言い切って構わないだろう。

語学など受験で得た知識がそのまま役立つ場合も多々あるし、学歴がその後の就職等に及ぼす影響力には信じがたいほど甚大なものがある。私は客観的には学歴を活かすことに失敗している人間だが、それでもなお、受験ほど確実で大きなリターンのある競技は他にほとんどないと思っている。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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さて、宮坂の英作文の話に戻ろう。私は京大英作文の対策はかなり難しいと思っていて、どのテキストをやっても心細かったのだが、宮坂のプリントをもらってからは、そこにある表現を繰り返し頭に叩き込めばそれで大丈夫だ、という安心感に包まれながら勉強できるようになった。

おそらくこのプリントを土台にした本は現在書店でも売られている。いい時代になったものである。

また当時、彼は「センター英語で180点以下を取る奴は人間でなくゲジゲジである」という凶悪な思想を持ちながらセンター英語の参考書を執筆しており、各所に過激なコメントを書き込んでいったら編集者に全部直されたと言っていた(「180点以下は○ね!」と書いたら「180点以下は取るなよ!」に変えられたらしい)。

彼の授業があまりにもわかりやすいので、生徒の中にはそれを毎回録音している者もいた。