田んぼは150ヘクタールまでに拡大、400人が離農した

千葉県柏市の株式会社柏染谷農場は、流域面積が日本最大の利根川沿いの中でも、総面積150ヘクタール(東京ドーム32個分)の作付け面積を誇る。従業員10人以上を率いる代表の染谷茂さん(75)は、今年で就農50年というコメ農家の生き字引的存在だ。5代続いた農家の長男でもある染谷さんに、まずは半世紀以前のコメ作りの状況から振り返ってもらった。

「農業高校を卒業して農業を3年ほどやったんだけど、そのころ近くに工業団地ができて周りの若い者もどんどん勤め始めた。そのタイミングで減反政策が始まって、もう農業をやらなくていいのかってことで俺もバスの運転手に転職した。

給料もいいし何の不満もなかったんだけど、いろいろ考えて会社勤めは3年半でやめて、また農業を始めた。農業が好きというよりは5代続いた農家の長男だから継がなきゃなって感覚だったんだけどな。もとは1.5ヘクタールの田んぼだったけど、機械をそろえて投資するとその面積じゃ採算取れないから、最初は作業請負をしてその田んぼを借り入れしたりしたんだ。まあ昔でいう小作農もやって、設備投資の返済に充ててたってことだね」

染谷さん(撮影/集英社オンライン)
染谷さん(撮影/集英社オンライン)
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周囲の農家は工業団地誕生とともに兼業化し、離農者も続出するようになった。

「“貸してやるからやってくれ”から、そのうち“田んぼ持っててもしょうがないから買ってくれ”になっていった。(私の田んぼが)150ヘクタールまでに拡大するまでに何人のコメ農家がやめていったと思う? 400人近くが離農した結果なんだ。兼業が面倒になったという人もいたし、収入面が理由の人もいた。

俺が高校生の頃は農家の目標が7桁台(数百万円)って言われていたんだよ。これ所得じゃないよ。年の売り上げでだ。

一方でバス会社を辞めるころには俺の月給は約17万円、年間だと200万円以上あった。ということは所得でいえば運転手のが良かったってことだ。昔から農家は大変だった。水飲み百姓って言葉があるぐらいだからな。食うものがないから水を飲んで空腹を満たすって意味だ。それが今はようやくいくらか利益が出るようになった」