市民が集まる広場で自慰をしていた哲学者
ここまで来ればお分かりいただけただろう。「オナニーは悪いことじゃない」と教科書に明記されているのは、ほとんど奇跡のように素晴らしいことだ。だって、オナニーはずっと「血を吐いて死ぬぞ」「発狂するぞ」と超怖い説明をされていたし、我々は大いなる罪悪感を埋め込まれてきたのだから。保健の教科書はそんな呪いから解放してくれる、奇跡の書なのだ。
それだけではない。保健の教科書は正しいバランス感覚さえも持っている。
人類は往々にして、大きな揺り戻しを起こしてしまうものだ。ひとつの失敗の後には、過度に警戒してその逆を行こうとしすぎてしまう。ソビエト連邦崩壊後に過剰なマルクス批判が行なわれたみたいに。
オナニーについても、そうなる可能性があった。オナニー害悪論を退けた後、真逆の「オナニー礼賛論」に変わる可能性があった。その権威付けにピッタリな古代ギリシアの偉人もいる。彼が担ぎ出されて、オナニー礼賛の世界が訪れてもおかしくなかった。最後に、彼の話をしよう。「犬の哲学者」と呼ばれる男・ディオゲネスである。
ディオゲネスは「世界市民」という概念を提唱したことで知られる哲学者だが、功績は置いておいて、彼のユニークな行動に着目したい。市民が集まる広場でオナニーをしていたのだ。
なぜそんなことをするのか。彼の主張を思い切って意訳すると、「人間として自然なことならば公衆の面前でやっても自然だ」という感じである。実に迫力のある主張だ。
そう、今までに見てきた「オナニー害悪論」はキリスト教的な発想から生まれたものであって、キリスト教誕生以前の古代ギリシアでは、オナニーはある程度自然なことだと捉えられていた。
つまり、見方を変えれば、「オナニー害悪論の撤廃」はルネサンス(文芸復興)の一環なのだ。キリスト教的なものから距離を置き、古代ギリシア文化を復活させることなのだ。
そして、オナニーに関して大きな揺り戻しが起きたならば、ディオゲネスの過激な価値観を復活させてしまってもおかしくない。保健の教科書に「自慰は公衆の面前でもどんどんしましょう」と書いてあってもおかしくないのだ。
だが、保健の教科書は実に賢明だった。オナニー害悪論を完全に撤廃するルネサンスの中で、過激すぎるディオゲネスへの揺り戻しも起こさずに、「自慰は恥ずかしくない(かといって、公衆の面前ではするべきでない)」という、中庸の結論を出している。これがどれだけ難しいかは、人類史を見ればよく分かる。人間は極端から極端に走りがちだから。
以上、冒頭の主張には完璧にご納得いただけたのではないだろうか。保健の教科書は最高の文芸復興だ。
長らく続いた「オナニー害悪論」から脱却し、碇シンジを始めとする呪われた青少年を解放し、罪悪感から自由にした。
だが、バランス感覚も失わず、ディオゲネスのようなオナニー礼賛には傾倒しなかった。
この最高のルネサンスに、心から感謝しよう。保健の教科書が失敗していたら、我々は親に射精管理をされながら過ごすか、広場でオナニーをしながら過ごすか、そんな極端な生活を余儀なくさせられたかもしれないのだから。
文/堀元 見