「歴史の生き証人」が明かすみのもんたさんの若き頃

AV監督の村西とおる、テレビプロデューサーのテリー伊藤、イエローキャブ創立者の野田義治といった、レジェンドたちと関わり続け、政治思想から刑事事件、裏風俗まで、昭和後期から平成にかけての時代の熱量を記録してきた本橋さん。

そんな本橋さんが忘れ得ぬ人々、出来事とは。

「もともとルポライター的な物書きになりたかったこともあり、まずはいろんな世界を見ておこうと思いました。最初からフリーランスでいこうと思ってましたが、やっていけるわけがない。そこで急遽就職活動をすることになり、テレビ局やラジオ局、広告代理店、芸能事務所などを受けたけれど、どこも採用されなかったんですね。

そこで、大学時代に知り合ったテレビ制作会社の若いディレクターに泣きついて入社させてもらったのですが、3か月で逃げ出してしまったんです。その若いディレクターは、今のテリー伊藤さんなんですけどね。

その後、フリーランスの物書きになってから意を決して連絡をしたら、あっけなく許してもらえて、それから改めて仕事をさせていただくようになりました」(本橋さん、以下同)

「物書き」になる前の1970年代後半、一時期イベント会社で働いていたという本橋さん。当時は、新卒社員を青田買いしたい企業がスポンサーとなって、大学生向けのイベントを多数開催していたという。

「男女500対500でカップルを成立させるフィーリングカップル5……といったマッチングものが多かったですね。そんなイベントをよくやっていました」

ここでも「のちの大物」と関わることになる。

「会場は六本木や歌舞伎町のディスコで、司会進行がみのもんたさんでした。何度か司会をしてもらいました」

文化放送を辞め、フリーとして活動し始めていたころだった当時のみのさんの印象を、本橋さんはこう振り返る。

「文化放送時代から社員アナウンサーなのに長髪で、ビートルズに詳しくて、おもしろいDJをする、ということで人気があった。私もビートルズが大好きだったから、みのさんのラジオ番組をよく聞いていました。

でも、みのさんはその後、人事異動で営業部に異動となって、文化放送を辞めたんですよね。

それで父親が経営する水道会社に入社して、そこで営業マンをしつつ、フリーのアナウンサーもしていたんではないかな」

売れる前のみのさんは、学生相手のイベント司会は乗り気ではなかったようだったとも。

「会場のディスコの片隅のソファで、イベント開始前、寝ていて、スタッフが『みのさん、もうすぐ始まりますー』と声をかけると、大きく伸びをして、不機嫌そうに起きる。

そのときに、腕にはめている金無垢の時計が、ジャラジャラと手首にずれるのが印象に残っています。売れないフリーランスの悲哀を見てしまった記憶があります」

だが、その後のみのもんたさんの快進撃は、誰もが知る通り。3月1日に亡くなってしまったが、その豪快さや面倒見のよさなどは、追悼記事で多数紹介されている。