自慰行為は万病の元?

中学校の保健の教科書に書いてあった一文が、僕の念頭を去らない。

自慰は悪いことでも恥ずかしいことでもありませんから、我慢しなくて大丈夫です。

僕は「やかましいわ!」と思った。「言われんでもわかってるわい!」と。

その続きには「ムリに我慢した結果として性犯罪に手を出すよりも、自慰の方が健全だよ!」みたいなことも書いてあり、「そりゃそうだろ」と思ったのをよく憶えている。何を当たり前のことを長々と書いているんだ、と心の中で毒づいた。

あれから20年近く経つが、僕は最近になって当時の自分の愚かさに気がついた。あの保健の教科書の記述は少しも自明じゃなかった。むしろ奇跡のように素晴らしい記述だった。オナニーの歴史を考慮すると、これが教科書に書かれていることに心から感謝できる。これは人類が最高のバランス感覚を持って成し遂げた文芸復興であるとすら言える。本稿ではそんな奇跡のルネサンスを見ていこう。

医学史を紐解くと、ハチャメチャな知識が割と最近まで信じられていて驚く。オナニーについての言説もそうだ。

実は、数百年前から長きにわたって、オナニーは健康に甚大な悪影響を与えると考えられてきたのである。どんな悪影響か? 当時の絵画を見てみよう。1830年にパリで出版された『LE LIVRE SANS TITRE』(『無題の本』)という書物に掲載されている、オナニーの悪影響を描いた挿絵だ。

健康的な美少年が、オナニーを始めてしまう。

画像・書籍より転載
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その結果、こうなる。

出典・同
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大量吐血である。「そうはならんやろ」という気がするが、これは現代人の感覚だ。当時は本当に「オナニーによってありとあらゆる症状が発生しうる」と考えられていたのだ。

そして、美少年は最終的にこういう末路を迎える……。

出典・同
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「死」である。なんということだろう。ほんの200年前まで、「オナニーをすると人は死ぬ」と考えられていたのだ。実に迫力のある主張だ。

「特殊な絵を持ってきて無茶な主張だけを取り上げている」と思われると困るので、別の本からも引用しよう。1758年に出版された、本格的なオナニー考察本『オナニスム』の内容を見てみることにする。著者であるスイス人医師のティソは、オナニーの害悪を伝えるために、こんな実例について書いている。時計職人の男がオナニーをし始めて、どんな末路を辿ったかという物語。

職業は時計職人。十七歳まではすこぶる健康だった。それ以降彼はマスターベーションに熱中。……一年経たないうちに、とにかく疲れる、何をやっても疲労の連続ということになる。だが、それでも彼はこの悪しき行為をやめるわけにはいかない。……このころ私は一度会ったことがあるのだが、まず受けた印象は、生きている人間よりは死体に近いというものだった。体を動かすこともできない、鼻からは血が出ている、ひどい口臭、下痢をしていて藁のベッドは糞尿まみれなのにそれも気にならない様子、精液も出っぱなし、目は空ろ、脈も弱い……こうしてこの男は一七五七年六月に死亡したのであった。
『マスターベーションの歴史』(強調は筆者)

怖すぎる。オナニーしてるだけでこんな「死人同様」みたいな状態になるのか。
 

「精液も出っぱなし」ってどういう状況??? 常時射精してんの???

こんな感じで、当時の文献には「オナニー経験者が辿る悲惨な末路」みたいな話が死ぬほど載っている。「オナニーすると発狂する」という記述もあちこちに見られた。めちゃくちゃだな、と思ったけれど、いたずらに健康不安を煽るビジネス書の数々が現代の本屋に並んでいるのを考えると、やっていることはいまでも大きく変わらないのかもしれない。

ともあれそういうことで、『オナニスム』の時代は、いわば「オナニー害悪論」が盛んに取り上げられ、礼賛された時代だった。同時代人である思想家ジャン・ジャック・ルソーもオナニー害悪論の熱心な賛同者で、『エミール』の中では、「若者はオナニーをしないように夜中まで見張っておけ」みたいなことが書いてある。どんだけオナニーさせたくないんだ。