一神教的な世界観から抜け出せない人たち
――封建制という言葉からは、中世ヨーロッパのキリスト教的な世界が想起されます。そう考えると、テクノ封建制に対応するような宗教性やイデオロギーが力を持ちつつあると見てよいのでしょうか。
内田 そうだと思います。一神教的な世界観ですよね。欧米の人たちはどうやっても一神教的な思考の枠組みから抜け出せないとつくづく思います。本人たちは自分は無神論だ、信仰や宗教性なんて持っていないと言うかもしれないけれど、やはり彼らの世界観は骨の髄まで一神教的なものだと思います。
一神教というのは頂点に神を置いたピラミッド型のような構造で世界を捉えるんです。フランス語では「ordre(オルドル)」と言います。英語の「order(オーダー)」と同じ語源で、「秩序」と「階層」と「同業者集団」という意味を持っています。
つまり、世界は三角形の階層構造になっていて、頂点には創造主がいて、その下に天使がいて、その下に人間がいて、動物がいて、植物がいて、鉱物があって……という序列で万象が配列されている。
問題は、この序列の適切性ではなくて、むしろ「誰がそれを見ているのか」ということなんですよ。人間はこの序列の中に「不完全な生き物」として位置付けられているわけですから、人間がこうした全体構造を一望的に俯瞰し、把握できるはずがない。
でも一神教的世界観は、その俯瞰図が「見える」ことを前提にしている。「神の視線」に立って世界を一望して、その上で「自分はこのへんにいるから、こうやって上を目指せばいい」というようなアイデンティティーの定位を行う。これはやはり論理的に不当だと思うんです。
自分自身を「マップ」の中に位置づけるというのは、ものすごく手間のかかることなんです。それができたら一人前。半人前の人間にはそれができない。神の視点に立って、自分の階層内的ポジションを定位するというのは、神の視点を先取りしているということで、ほんとうに信仰がある人間にはできるはずのないことなんです。
ふつうの人間は自分がどこにいるのか、自分が何者であるのか、よくわからないというところから出発する。そこから手探りで、手づくりで、自分なりの不完全なマップをつくってゆく。
――必死にもがくプロセスのなかで、少しずつ世界に対する理解を深めていくんですね。
内田 これは、どちらかというと東洋的な世界観です。僕はこれを「修行」的な世界観と呼んでいます。目の前の道があり、それがどこへ続くものかはわからないけれど、とりあえず師匠の背中を見ながら歩く。
歩き始めた時点では自分がどこに向かっているのか言葉にすることができないのだけれど、一歩進むごとに自分が「どこ」に向かっており、昨日の自分と今日の自分の間にどんな変化が生じたのかが、言葉にできるようになる。人間の成熟って、そういう「わからなさ」を抱えたまま進んでいくものだと思うんですよ。
それに比べて、一神教的な発想では「世界の構造はすでに見えている」「自分はどこにいるのかもマッピング済みだ」「あとはスコア(点数)を上げるだけ」ということになる。
テクノ封建制を推し進めている人たちは、自分たちは世界の全貌を見渡しているという「神の視点」に立っている。でも、実際にはそんなものは存在しない。ただの傲慢きわまりない幻想です。
知性というのは、グラデーションや程度の差を精密に測ることのできる計量的な能力なんです。0.1と0.2の間の程度の差をきちんと見分けることができるというのが本来の知性の働きじゃないでしょうか。
テック・ジャイアントたちの思想的リーダーであるピーター・ティールの本のタイトルは『ゼロ・トゥ・ワン』です。「0から1へ」というタイトルそのもののうちに、「程度の差などというものは存在しない」という予断がすでに含まれています。
レッドピルを一粒飲んだら世界のことが全部わかるという、ゼロか1かという考え方はあまりに幼児的に過ぎると僕は思いますけどね。
本の内容からずいぶん脱線してしまいました(笑)。話を戻しますが、バルファキスの分析は本当に見事だと思います。特に、テック・ジャイアントの行動原理に対する批判的な見方や、利潤からレントへのシフトに関する分析は、目から鱗が落ちるようでした。
そもそもテック・ジャイアントを扱う本って、基本的に60歳以上向けには書かれていないんですよ。でもね、この本は74歳の僕が読んでもよくわかる。中学生から後期高齢者まで全世代が読めて、かつ面白い。僕が保証します(笑)。
構成・斎藤哲也