事実上、売春が公認されていた
戦前は、公娼制度といって合法的に売春が行われていた。公娼制度というのは、国に許可された貸座敷業者だけが売春業を行うという制度である。
遊郭は江戸時代からあり、そこには身売りされてきた娼妓(売春婦)たちがたくさんいた。明治になり西洋思想が入ってくると「人身売買」だとして問題視されるようになった。そこで明治6(1873)年、貸座敷渡世規則という法律が発布され、遊郭はすべて貸座敷業にされたのだ。
また貸座敷業も表向きは売春が認可されているわけではなかった。「業者は座敷を貸すだけであり、その中で娼妓達が自分の意思で、客と性行為に及ぶ」という建前になったのだ。現在のソープランドのしくみと基本的には同じである。
貸座敷業で働く女性は、公娼(公認された売春婦)とされ、この公娼には厳しい規則が設けられていた。
貸座敷業はどこでもやっていいというわけではなく、開業できるのは国が許可した場所に限られていた。国が許可した場所が、公の売春地帯ということになるわけだ。この合法的売春地域は、東京では吉原、大阪では飛田新地などが有名である。業者は娼妓達の名簿を提出し、定期的に性病の検査を受けさせる必要があった。
公娼としての過酷な日々
また公娼になるには、一応のルールがあった。
・尋常小学校を卒業していること
・親の経済が逼迫していること
・親が不動産を持っていないこと
などの条件である。つまり当時でも娘を簡単に売ってはならない、という認識はあり、だれでも公娼になれるというわけではなかったのだ。ただ条件をクリアできなかったり、芸や外見の面で雇い主がいないなどで、公娼になれない女性はもぐりの娼婦(私娼)となった。一旦、公娼になると、彼女たちは指定された地域以外には住めなかった。また貸座敷業者の許可なしには外出の自由もなかった。
娼妓が廃業するために貸座敷を脱走して警察に行っても、警察は業者と癒着していた。警察は話し合いをさせるという名目で、貸座敷業者の元に帰らせるか、勾留所に一晩留置して廃業を思いとどまらせるのが常だった。
娼妓たちは、運が良ければキリスト教団体などの慈善事業の手を借りて廃業することもできたが、それも稀なことだった。
大正14(1925)年の調査では、貸座敷業者(売春店経営者)は全国で1万社あり、娼妓が5万人いたという。昭和初期には不景気のため、東北地方などの農村から身売りされる娘が増え、そのころの小学校卒業者の少なくとも76人に一人が売春をしていたという。