権威主義から解き放たれた世界観

それはどういうことなのか。その説明のために、今度は『ヨーロッパ退屈日記』からもナポリタンに関連すると言える部分を引用してみましょう。

伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』 (新潮文庫)
伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』 (新潮文庫)

ちなみに当時の日本では、今で言うナポリタンが「イタリアンスパゲッティ」と呼ばれることも多かった時代です。

マドリッドのイタリー料理店で、メニューにスパゲッティ・イタリヤーノなんて出てる。これはいけませんよ。

こういう店のスパゲッティは、概して日本で食べるスパゲッティに似ています。スパゲッティが茹で過ぎてフワフワしてる。色んな具がはいって、トマト・ソースで和え、フライパンで炒めて熱いうちに供す、ということなのでしょうか。

これは断じてスパゲッティではないのです。〈中略〉

しからば、真のスパゲッティとはどういうものなのか。

現代日本のナポリタンと同種のものが「断じてスパゲッティではない」と全否定され、そこから「本物はどういうものか」が、微に入り細を穿って語られます。

そして、以降世の中でこういう考え方はすっかり支配的なものとなっていくわけです。日本人はそれまでずっとお世話になってきたナポリタンへの恩を忘れたかのように、それをイタリア式のパスタより劣るものと明確に位置付けました。

ところが面白いもので、そこからはまたすぐに逆の価値観も生まれます。ナポリタンはイタリアのパスタとは全く別の食べ物として愛すべき存在である、という考え方。

現代においてはむしろそれが主流と言えるでしょう。「普段は本格的なパスタを楽しんでいる俺も、時々無性にナポリタンが食べたくなるんだよね」、みたいな物言いが典型的です。

今どき「イタリアのパスタこそ本物でナポリタンは偽物である」なんてことを真顔で言ったら、逆に笑い物になることでしょう。そういう意味で、今やナポリタンは決して貶してはいけないものになっています。ある種の聖域とも言えます。枕詞に「懐かしの」が付くのもお約束。

それは、イタリアのパスタこそが正しい、という権威主義を否定した結果、また別の権威主義に囚われているようにも思えます。平野さんがなかなかに厳しい言葉で違和感を表明するのは、まさにそこに対してです。

『生まれた時からアルデンテ』は、この種の権威主義からは解き放たれた世界観で構築されています。