「日本はIS側と交渉できていたのでしょうか?」
本当に、日本政府はISと何も交渉できなかったのか─。
私はその後も現地に残り、現地助手の力を借りて独自に日本人ジャーナリストの解放交渉の内側に迫ることにした。
現地助手がヨルダン政府の外交トップである外交委員長と旧知だというので、議員会館に潜り込み、彼の部屋の前で数時間張り込んだ。
彼が外出するタイミングを狙って扉を押さえ、「10分だけ」と懇願して2人で部屋に押し入った。外交委員長は「また貴方か」と言って現地助手を軽くにらみつけ、それでも約30分間、我々の取材に応じてくれた。
「日本はこの期間、IS側とどのような交渉を続けていたのでしょうか?」
私が質問すると、外交委員長は「我々はISと非常に複雑な交渉を続けた」と、主語を「日本」ではなく、「我々」と言い換えて内実を説明した。
「相手はテロリストだ。だからヨルダンと日本は一つのグループになり、第三者を通じて交渉を続けた」
「日本についてはいかがですか?」と私は尋ねた。「我々とはつまり、ヨルダン政府のことなのではないですか?」
外交委員長が沈黙したので、私はさらに質問を重ねた。
「日本はIS側と交渉できていたのでしょうか?」
「いや」と外交委員長は言った。「私の知る限り、日本とISの直接交渉はなかった。でも、それは仕方のないことだ……」
「仕方のないこと?」
外交委員長は首を振りながら言った。
「ヨルダンや日本は、米国ではないのだから……」
その夜、日本大使館の前でヨルダン市民による殺害された日本人ジャーナリストの追悼集会が開かれた。日本から取材に来ていたテレビカメラが何台も並び、その様子は日本でも大きく報道されたが、その集会には過剰な「演出」が含まれていた。
私が知る限り、彼らは大型バスに乗って大使館前に運ばれてきていた。追悼集会があったのは日本大使館の前だけだ。
あまりのタイミングのよさに疑問を感じて参加者に聞くと、彼らの多くが政府系組織の要請によって集まっていることを認めた。ヨルダンは日本から多額の支援を受けている。しかし今回、両国の交渉は失敗に終わった。なんとかして両国の友好関係はつなぎとめたい─そんな両政府の意向が見え隠れする。
日本人ジャーナリストの殺害に関する取材が終わり、日本メディアが帰国の途につき始めた2月3日、今度は人質にされていた26歳のヨルダン軍パイロットの殺害映像がISによってインターネットに投稿された。
まるでCG(コンピューター・グラフィックス)のように、生きた人間を衆人環視のもとで焼き殺す、極めて残虐な映像だった。
ヨルダン軍パイロットの父親が待機している集会場に向かうと、外では1000人を超える市民の怒りが渦のようになっていた。
「殺せ」と誰かが叫ぶと、群衆がそれに呼応するように一斉に叫び始めた。
「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」……。
絶叫が集会場前の路上を覆い尽くしていく。一触即発の状態になったとき、突如、テレビにヨルダン政府が確保していたIS側の死刑囚の死刑が執行されたというニュースが流れた。
すると人々は一気に沈静化し、死刑執行と復讐、ヨルダン政府を支持する掛け声だけが再び路上を伝播していった。
政府による情報操作。私はあまりに恐ろしくなった。この国では、市民が完全に政府にコントロールされている─。
翌日、ヨルダン軍パイロットの故郷であるカラクに向かうと、午前9時前、殺害後一度も姿を見せていなかったパイロットの父親が自宅前にいた。カメラマンと2人で単独会見を申し込むと、父親は受け入れ、嗄れた声で日本政府と日本人に向かって謝罪した。
「ヨルダン政府が大切な日本人ジャーナリストの命を守れずに申し訳なかった。ヨルダン人として、私も遺族に心から哀悼の意をあらわしたく……」
村の中心に臨時のテントが張られ、すでに村人ら約600人が弔問に詰めかけていた。
追悼礼拝の途中、戦闘機2機が爆音を上げて上空を飛び去っていくのが見えた。
その瞬間、父親は「息子よ、息子よ」と大声を上げてむせび泣いた。
私が知る限り、父親が感情をむき出しにしたのは、そのときが最初で最後だった。
文/三浦英之『沸騰大陸』より抜粋 構成/集英社学芸編集部