撮影への協力がきっかけで世に知れ渡るように

――それで、どんな流れでハプニングバーなる名前が生まれたんですか?

店内には地べたにプレイできるマットがあって。そのスペースを仕切るようにソファを置いていた。誰かがマットで行為を始めると、みんながソファに座り顔を並べて覗きこむ。

その重みに耐えきれなくなったソファがマット側にドーンと倒れて、人がマット側になだれこんじゃったの。それで「どうせならみんなでやっちゃえ」って大乱交状態に。

みんな一息ついたところで「あれはハプニングだねえ!」って誰かが言うと、ふと私が「そうか、ここはハプニングバーか」って思いついて。そのうち仲間内でもそう呼ぶようになった。

――仲間うちで呼んでたものが、どうしてここまで世に知れ渡るようになったのでしょう。

それはうちに来ていたお客さんが、歌舞伎町や渋谷などあちこちで店を出すようになったのもあるし、一番のきっかけは成人ビデオですね。

私の店の噂をどこかで聞きつけたか、店を舞台にして、女優2名を使ったドキュメンタリー風の作品を撮りたいって言ってきたんです。

制作側は当初「カップル喫茶」という名前で出すと言ってたし、私も「ハプニングバーって名前は出さないで」と言ったのに、売られたビデオには「ハプニングバー」って書いてあって。そこで名前が一気に広がった。

かつての店があった歌舞伎町セントラルロードを歩く川口さん
 
かつての店があった歌舞伎町セントラルロードを歩く川口さん
 

 ――なぜ「出さないでほしい」と言ったんですか。

それはいつ逮捕されてもおかしくない業態の店だという認識はあったし、あくまで少数派の変態が密かに楽しむ場であったし、ましてや金儲けのために広く認知させたいなんて思わなかったから。

――であれば、なぜ撮影に協力したのですか?

決して金儲けのために引き受けたわけではなく、制作者の熱意かな。私の撮影現場での役割は、場所貸しと監督的な役回りでした。

主に男優たちの立ち回りに「そんな風に声かけないよ」とか言って演技指導なんかもして。変態的なジャンルの作品があってもいいのではないか、その記録のひとつかな、というような思いもあったからです。

――その作品に出たことでハプニングバー業界はどう変化したんですか。

有名男優も関係してオープンしたと言われている六本木の『鍵』という店とかが派手にオープンし始めたし、最盛期は歌舞伎町だけでも12店舗はあった。

そしてより本格的にプレイができるように、店内にシャワーやロッカーをつけたりと、通常のバーではない構造の今の業態の店が増えました。

――川口さんが最初にオープンした店にはシャワーはなかったんですね。

ないよ。最初の店は新宿バッティングセンターの近くで、狭くてただ地べたにマットを敷いてソファがあるくらいでした。

でもお客さんから「マスター、他の店にはシャワーもあるんだからつけてよ」と言われ、面倒だと思いながらも場所も変えてシャワーやロッカーなども完備し、リニューアルオープンすることになったんです。

ハプニングバーの客たち
ハプニングバーの客たち
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――客の中には芸能人なんかもいたんでしょうか。

お客さんのことは言えないかな。でも慕ってくれた人はいましたよ。

――そもそも川口さんにはハプニングバーを経営してた当時、罪の意識はあったんでしょうか。

当然ながら、公然わいせつの罪に問われるものだという認識はあったけど、私がハプニングバーを開いたのは趣味の居場所を作りたかったからで、罪だとは思っていませんでした。

もっと規模を拡大して商売することもできたけど、それをしなかったのは趣味だったからだし、これで儲けるつもりがなかったからです。

――とはいえ、儲けたんじゃないですか。いい車だとか時計だとか。

ないない、儲けても店の改築費や維持費に消えて残ってないですよ。

                 ※
後編では近年“ハプニングバー業界”でみられるシステムや客層の変化について、川口さんの心情を聞いた。

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班