ダンプ松本引退後の苦悩
──ダンプさんの路線とは別のヒール像を選ぶことになったわけですが、わだかまりはありましたか?
ありましたよ! いつも一緒にいて、いろいろなことを教えてくれた先輩で、本当にお世話になった方だったので、進む道が枝分かれするのはさみしい気持ちもありました。
クラッシュギャルズが1989年に引退したあと、WWWA世界シングル王座のタイトルを獲得し、第37代王者になりました。
その後の3年間はチャンピオンとして全女の人気を預かる立場になりました。なので、当時の私は早急に自分のスタイルを確立する必要があったんです。
いつも試合が始まる30分前に社長室へ行って、今後について打ち合わせをして試合に臨んだほどです。
ダンプさんがいないことはもちろんですが、その時期はベビーフェイスにおいても、かつてのビューティーペアやクラッシュギャルズのような人気を誇る選手は皆無でした。
観客動員数も激減し、そのたびに「私のやり方に問題があるんだ」と考えて試行錯誤していました。
──お客さんを呼び込むために特に意識したことはなんでしょうか?
自分たちの価値を見誤らないことですね。現在のようにインターネットもなければ、ましてSNSなどもない時代です。
ひとりのお客さんがチケット代を支払って、その価値に見合わないと思えばもう来ないでしょう。友人に薦めることもない。
「自分たちがお客さんになにを提供できるのか?」という視点に立って、試合を盛り上げようと考えていました。
──『極悪女王』でも、会社側があえて選手同士を焚き付けて対立を煽り、試合を面白くさせる場面があります。翻ってブル中野さんといえば、愛弟子のアジャ・コング選手との金網デスマッチに象徴されるように、観客をワクワクさせるストーリーもありますよね。
会社からことあるごとに「最近、アジャ・コングがお前の悪口いってるぞ」とかいわれるんですよ(笑)。で、たぶん向こうにも同じことを吹き込んでいる(笑)。どんどん険悪になっていくんですよね。
あのとき、本人に「本当にそうなの?」と真偽を確認すれば、誤解はすぐに解けたでしょう。でも当時は半分意識的に、それをしなかったんですよね。
──それはなぜでしょうか?
トップ選手になることを夢見ていた私にとって、たとえ会社に操られていたとしても、そのなかで最高のパフォーマンスをしてやろうという気持ちが強かったからかもしれません。
正直、会社がどう持っていきたいかはおおよそ察していました。けれども、そこにあえて乗っかって自分の力でトップを獲るんだと思って、練習をしてきたんです。