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きょうだいだけが知るアントニオ猪木

9月12日には菩提寺の横浜市鶴見区の総持寺で新日本プロレスの坂口征二相談役ら関係者120名が参列し、猪木さんの一周忌法要が営まれた。法要後には改修した猪木家の墓所に建立した「ブロンズ像」の除幕式が行われ、参列者はそれぞれ猪木さんの雄姿に手を合わせた。

法要、除幕式には、猪木さんの兄・康郎さん(98歳)、妹の佳子さん(76歳)、弟の啓介さん(75歳)が参列した。11人きょうだいの6男だった猪木さんは、14歳を迎えたばかりの1957年3月に祖父・相良寿郎さん、母・文子さん、そして7人のきょうだいと共に横浜港から船に乗ってブラジルへ移住した。

写真左から兄の康郎さん、妹の佳子さん、弟の啓介さん。一周忌の法要にて
写真左から兄の康郎さん、妹の佳子さん、弟の啓介さん。一周忌の法要にて
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1948年2月に石炭商だった父・佐次郎さんが急逝した一家にとって、ブラジルに新たな生活の場を求めた末の移住だった。しかし途中、パナマ運河で祖父が急逝する悲劇に見舞われる。このブラジルへの移住を猪木さんと共に体験したのが佳子さんと啓介さんだった。

最初に暮らしたのは、サンパウロ州の南西部に位置する都市、リンス。ここで一家は、珈琲農園に住み込み、豆の収穫などの労働に従事した。啓介さんが当時を振り返る。

「毎日、朝5時に農園を管理する監視者に鐘を鳴らされて起こされるんです。そこから食事をして8時間、農園で労働です。豆の収穫は素手でやるんです。だからすぐに掌は血がにじんでね。そのうちマメができて痛みなんかなくなります」

中でも過酷だったのは、背丈ほどに伸びた雑草を刈る作業だった。

「大きな鎌で雑草を刈り取るんですが、これを引くのがとてつもなく重くてね。今、思い出してもつらい作業でした」(啓介さん)

そんな過酷な労働の中で思い出す猪木さんの姿は「黙々と仕事をしていました。兄は、当時ですでに身長180センチ以上あってきょうだいの中でも群を抜いて体が大きかった。ですから、物を運ぶのも誰よりも重い物を持たされるんです。だけど嫌な顔をひとつせず、黙って仕事をしていました」と目をうるませた。

そして「雑草を刈り取ったり、荷物を運ぶことで自然とあの頑丈な体が作られたんだと思います。兄の肉体を築いたベースは、まさにあのときの労働あったと私は思っています」と話した。