西欧の貴族社会的な馬事文化の踏襲

いわゆる⾺上クロスカントリーの「総合⾺術」は、東京湾上の埋め⽴て地に丘や池や⾛路を設けた「海の森公園」で⾏われた。こちらは複雑に設計された各種障害物を跳び、さらにタイムの速さで順位を競う。

背後に東京湾や湾岸に⽴つ摩天楼が垣間⾒えるコースは、オリエンタリズム満載で外国⼈ウケはよさそうだったが、すべて⼈⼯物で、苛酷なコースを疾⾛する⾺の脚に負担がかからないわけがない。

予選2⽇⽬、⽔濠を⾶び越える際に失敗したスイス⼈選⼿の⾺、ジェットセットが右脚を負傷し、安楽死させられたのは、悲しい思い出だ。そしてクロスカントリーコースは⼤会終了後、跡形もなく撤去された。東京の⼈⼯施設ではなく、⾃然に囲まれ、もともと乗⾺拠点の多い那須や⼩淵沢で開催できなかったものかと、思わざるを得なかった。

さらにパラリンピックも含めて全⾺術競技に共通したのが、イギリスやドイツ、フランス、オランダといった⻄ヨーロッパ勢の圧倒的な強さだった。アンダルシアンという名⾺の産地であるスペインや、サラブレッドの源流、アラブ⾺を産出するアラビア半島諸国ですら、その存在が⽬⽴たない。

いまなお⾺と暮らす⼈々が⻄欧諸国と⽐べて圧倒的に多いはずの、モンゴルやキルギス、カザフスタンといった国の選⼿が、ほとんどいない。⾺の扱いを⼀番よく知る⼈々が全然いないことに、⼤きな違和感を抱いた。

モンゴルの草原の駐馬場(撮影・星野博美)
モンゴルの草原の駐馬場(撮影・星野博美)

オリンピックやパラリンピックで繰り広げられるこれらの⾺術競技は、⻄欧の貴族社会的な⾺事⽂化の踏襲であり、その世界観の再現でしかない。そこに追随、あるいは少なくとも共感する姿勢でないと、いくら⾺が好きでも⼊りこめない現実を、再認識させられた。

私は、明らかに「⼊りこめない」側だった。私ですらそう感じるのだから、⾺と共に⽣きる⼈々は、より距離を感じるのではないだろうか。

オリンピックやパラリンピックの⾺術競技にはない、⼈と⾺の関係性。⻄洋のハイソサエティの⾺事⽂化とは違う、もっと泥臭いもの。
「これは、⻄欧主導ではない、遊牧民独自の競技大会を開くしかない」
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。