日本兵が松明のように燃えながら

一般の地上戦闘とは異なり、艦砲射撃による殺戮行為はその実態が分かりにくいものである。ただし戦艦ニューヨークなどの住民追撃は、地上部隊からの指示によるものであり、明らかに戦闘行為を越えたものである。沖縄戦において住民は、日米軍双方から法理や人倫もなく殺され続けたわけだ。

もっとも退却する日本兵からすれば、貴重な医薬品である包帯を身にまとうことと民間人に偽装することは、戦術上同じことだった。そのことは、5月30日未明、首里市崎山町の第62師団通信隊壕から脱出した一将校の言葉にも現れている。

「暗夜の(脱出)行動では先行兵の姿を見失うことを考え、医務室から貰い受けた包帯を利用、各人が『白たすき』をすることに決めた。また先行する兵士の名前を呼び合い、各人は必ず十数メートルの距離を保つこと。また万一受傷し、斃れても、状況上救助不能の場合は自決も止むを得ない。(中略)数台の無線機が、十字鍬で叩き壊された(*5)」という。

しかしそれでも米艦隊は、白衣を着けた「民間人」を撃ち続けた。なお、米軍の調査では、日本軍が退却行動をとった後の路上には、推計で1万5000人の民間人の死体が横たわっていたという。

ところで前線の米軍が、日本軍の撤退開始を把握したのは5月26日のことであった。この日だけで約5000人から6000人が移動中と、米軍偵察隊は報告しているが、米軍司令部は、26日の日本軍の行動を南北間の部隊移動とみなした。

参謀会議でもG-2は、「我々は、大砲で多くの日本兵を殺さねばならぬ。戦艦は、終日16インチ砲で、首里城を砲撃し続けている。ブルース将軍は、『首里城にガソリン・パイプラインを敷くか(*6)』」と火責め攻撃を提案した。

これは、生き埋めではなく、究極の地下の完全転圧・焼滅作戦であった。本計画は、日本軍が脱出したため実行には移されなかったが、首里に取りつくまでに米軍は、日本軍陣地や壕にガソリンを投入し、梱包爆雷で陣地を破壊する究極の作戦を続けていた。本作戦について従軍記者が本国に次のように伝えている。

「焼燐弾で焼かれた子どもと女性は、骨まで焦がし地べたをのたうち回り苦しんだ」米海兵隊による虐殺が行われた悲惨な沖縄戦_2

「残酷な戦闘が激化(5月半ば、第1海兵師団は)首里の西にある尾根沿いに進み、日本軍に向けて『流油』作戦を展開中である。16人ずつの班に分かれた海兵隊員が、油の入ったドラム缶をロープで尾根の頂上まで引き上げ、そこから珊瑚の断崖づたいに油を流し、手榴弾で炎上させる。すると陣取っていた洞窟や尾根から日本兵が松明のように燃えながら悲鳴を上げて飛び出し、そこで機関銃弾に倒されるのである(*7)」