知らないうちに加害者になってしまう暴力

文化的暴力は私たちにとって、前の2つよりはるかに身近で、厄介な代物だ。厄介だと言うのは、知らないうちに加害者になっている危険が各段に大きいから。しかも文化的暴力は、それを行使したり被ったりすることが他の2種類の暴力の肯定に結びついてしまう。

一般的に、文化的から構造的を通って直接的暴力に向う因果的な流れが認められる。文化は説教し、教え、諭し、扇動し、われわれを鈍くし、搾取そして/または抑圧を正常かつ自然なものと見させるか、あるいはそれら(とりわけ搾取)を見させない(藤田明史訳『ガルトゥング平和学の基礎』)。

ガルトゥングはそう説明している。

いまの美智子上皇后が皇后だった頃に詠んだ次の1首は、文化的暴力というものの罪深さに対し、自戒をもこめて歌いあげたおそるべき秀歌である。

知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミヤンの野にみ仏在(ま)さず

アフガニスタンのイスラーム過激派武装勢力タリバーンによって破壊されたバーミヤンの磨崖仏を、いま40代以上の人々はニュース映像等で見たことがあると思う。多くの人はきっと、「ひどいことしやがるな」「もったいない」と軽く正義感をたぎらす程度だろう。

バーミヤーン大仏 写真/Shutterstock.
バーミヤーン大仏 写真/Shutterstock.

ところがこの歌人は「知らないだけで自分も撃っていたのではないか」と自身が加害の側に、暴力を行使する側に入っていた可能性を疑おうとするのである。皇后美智子がなぜに、なにを、撃つというのか?

善悪二言論でタリバーンを切る立場で考えるのなら「私たちが中近東情勢に無関心でいた結果、過激な連中を増長させ、磨崖仏が破壊されるまでになってしまった」という脈絡がいちおうできるかもしれない。その場合は無関心に誘うすべてが文化的暴力の種となる。

だが私は、1首をそんなにせまい了見に閉じこめておきたくはない。「知らずして われも撃ちしや」というこの、世にはびこる文化的暴力をキッと見つめかえすまなざしにどぎまぎしつつ、想像力をひろげてゆくのが最良の鑑賞ではないかとおおけなくも思う。