反戦とエコロジーを結びつけた墨子の思想
そう。論理的で実利を重視する墨子にはもう一つ別の顔がある。天や鬼神といった、人以外のものも視野に入れようとするのである。
この点では「怪力乱神を語らず」と不思議・オカルト系に傾倒するのを固く戒めた孔子の儒学と対立する。先に墨子が利を重んじて非攻を説いたと書いたが、これだって、天の利、鬼神(死者の霊)の利、人の利、とお三方におうかがいを立てているのだから、筋金入りなのだ。
また、墨子は冠婚葬祭を簡略化するなど「節」を求めてぜいたくを戒めた。反戦とエコロジーを結びつけたきわめて初期の例と見なしうる。
ついでにもう一つ、墨子には科学者の、と言って大げさなら技術屋の顔をもあった。彼とその弟子たちは高い築城技術を持っており、攻める戦は否定するものの、攻められた時の防戦は必要だと考えていた。
のみならず、大国に攻められた小国の城郭が脆弱と見れば、出かけていって防御に力を貸すべきと考えていた。墨守という言葉はここに由来する。
墨子の死後も、その思想と実践は弟子たち、つまり墨家の面々に継承されていった。代々、鉅子と呼ばれる指導者を立て、思想的技術屋集団として活動を続けたらしい。彼らが小国の防衛を請け負っていた確実な記述が『呂氏春秋』に見える。もっともその記述は、楚の攻勢に対しもちこたえられず敗戦、鉅子の孟勝以下、180名が自決した、という悲惨な内容だが(紀元前381年)。
以降、墨家は急速に衰え、戦国時代が終わり秦が天下をとる頃には、言論の表舞台から姿を消す。本格的な再評価が始まるのは清代も末期になってからである。
最後に、非攻の系譜につらなる、ささやかな傍流を見ておこう。諸子百家の中でも万年補欠といった感じだが、宋子と尹文の説だ。
この2人の学説を収めたまとまった書はなく(後世の偽書を除けば)、彼らを批判したり(たとえば『荀子』)、賞賛したり(たとえば『荘子』)する別の書のおかげでその思想がうかがえる。それによると、彼らは、「人から侮辱されても恥と思うな。恥と思わなければ争いは起きない」と説いていたらしい。
まさに一人一人の日常から始められるところ。この考え方は、いかがだろうか。
文/前川仁之