「戦争は、体験しない者にとっては甘美なものだ」

平和を愛する人にとっては残念なことに、戦争には人をひきつける魅力がついてまわるのかもしれない。

「戦争は、体験しない者にとっては甘美なものだ」と喝破したのは人文主義の巨人デジデリウス・エラスムスだ。

デジデリウス・エラスムスの肖像 写真/Shutterstock.
デジデリウス・エラスムスの肖像 写真/Shutterstock.
すべての画像を見る

部外者にとって甘美とは、当事者にとって甘美であるよりずっとたちが悪い。なぜなら当事者はたとえ甘美でも身にふりそそぐ戦争そのものの相手に忙しかろうが、部外者なら存分に憧れられる。憧れ、欲し、ついにはもたらしうる危険さえある。

だからこそ私たちは、戦争の魅力と、あるいは戦争には魅力があるという噂と、しっかり向き合わねばならない。そしてそれがネス湖の怪獣に類する噂だけの存在なのか、それとも本当にあるのか見定め、後者の場合は、平和の実現に向けてなんらかの対抗策を講じなくてはなるまい。

暴力の3つの形態

現代平和学の第一人者であり、日本とも関係が深いヨハン・ガルトゥング(1930~)によると、暴力には3つの形態がある。直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力だ。

ヨハン・ガルトゥング『日本人のための平和論』(2017年、ダイヤモンド社)
ヨハン・ガルトゥング『日本人のための平和論』(2017年、ダイヤモンド社)

直接的暴力は説明無用だろう。構造的暴力は間接的な暴力に近い。政策や社会制度によって生じる貧困、差別などが構造的暴力にあたる。この種の暴力は社会構造に組みこまれているために見えづらい。

そして文化的暴力とは、「構造的・直接的暴力を正当化する文化に根ざすすべてのものを包含する」(木戸衛一、藤田明史、小林公司訳『ガルトゥングの平和理論』)。簡単に言えば、暴力を許容したり美化したりする言説や芸術作品がそれにあたる。

直接的暴力は、よほどのケンカ好きや職業軍人、あるいはプロレベルに場数を踏んだ市民運動家でもない限り、いまの日本ではそんなに身近ではないだろう。

ユダヤ系ドイツ人の思想家ヴァルター・ベンヤミンによると労働者のストライキも合法的な暴力なのだが、ここでは除外する。

構造的暴力は一般人の大多数にとって、それを助長する政策がとられないかチェックする対象にこそなれ、自ら手を染めるものでもない(と祈りたい)。悲しいことに被害者として接する人のほうが多いかもしれない。

たとえば新自由主義政策の結果格差が拡大したとしたら、低所得に苦しむ人々は構造的暴力の被害者だ、ということが言える。