音楽業界に革命をもたらしたのは旬を過ぎたアイドルだった

人気作詞家になってヒット曲を量産し始めた阿久悠が、音楽業界に次なるイノベーションを巻き起こしたのは、旬を過ぎたアイドル歌手の山本リンダに書いた『恋のカーニバル』によってだった。

“大人の歌手への脱皮”を狙って作られたその歌は、若くてスタイル抜群の女性がセクシーな衣装や振りつけで、テレビの画面からアピールして歌うことを前提にしていた。

そもそもの企画は、学習院大学を卒業して間もない若手の作曲家・都倉俊一のところに作曲の依頼があったところから始まった。

次々にヒット曲を作り出していた都倉は、歌手(山本リンダ)の名前を聞いて「ああ、あの舌ったらずの歌手」というもので、あまり食指を動かされなかった。所属していた事務所には「断ってください」と頼んでおいたという。

1966年発売、山本リンダのデビュー曲『こまっちゃうナ』(ミノルフォン)のジャケット写真。100万枚を超える大ヒットとなったが、この曲以降、彼女はヒット曲に恵まれずに歌手としては低迷していたという
1966年発売、山本リンダのデビュー曲『こまっちゃうナ』(ミノルフォン)のジャケット写真。100万枚を超える大ヒットとなったが、この曲以降、彼女はヒット曲に恵まれずに歌手としては低迷していたという
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ところが数日後。山本リンダの件でどうしても会いたいと、当時フジテレビのプロデューサーだった吉田斉がやって来た。あまり乗り気ではない都倉に多少気を使いながら、吉田は協力を仰いだ。

「話をしていくうちに、テレビという映像と音楽の組み合わせにより、何かできるかもしれないという気になってきた」

映像を思い浮かべながら作曲をするというのはあまりやったことのない手法だったが、都倉はほとんどの場合、作曲と編曲を同時にやっていた。だからまず、どういうイントロから考えてみた。

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そこから発想して、リズムは南米のサンバにすることに決めた。そしてこの仕事を正式に受けることにして、作詞は勢いのある阿久悠に依頼することにした。

写真はイメージ 画像/shutterstock
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それまでは作詞家から詞をもらって、それに曲をつけるのが普通だった。だが、この時は作曲と編曲を先に進めてカラオケまでレコーディングし、それにメロディーを入れて阿久悠に渡した。

その手法は、山本リンダのプロジェクトだけでなく、阿久悠と組んだソング・ライティングでは常套手段になっていく。単なるソングライティングではなく、プロデューサー的な立ち位置だ。

そして阿久悠から『恋のカーニバル』というタイトルの歌詞ができあがってきた。