子どもの権利条約を世界で158番目に批准

しかし、1950年には憲章を改正して校長の保留権が入り、生徒自治から「特別教育活動としての生徒会活動」に転換した。

それでも、千葉県立東葛飾高校では、1969年に生徒会と職員会の二者で「教育制度検討委員会」を設置して話し合い、選択授業・自由研究導入、服装条項以外の生徒心得全廃(1972年に制服廃止)、職員生徒連絡協議会の制度化などの改革を実現し、二者協議会は他の学校にも広がっていった。

だが、進学校で受験シフトが強化されたのに加え、1970年代以降、学生運動に対する反発として、抑圧的、管理教育的なアプローチが取られ、民主的な取り組みは萎んでいった。後述する部活動の強制加入も含め、戦後目指してきた日本の民主化教育から、今へと続く管理教育への転換を考えるにあたって「1969年」は非常に重要な年になる。

戦後2回目に学校の民主化が盛り上がったのは、1990年代。1989年に、国連で子どもの権利条約が採択され、日本は1994年に批准した。これを受けて、子どもの権利条約の意見表明権に基づいた生徒参加論が研究者や日本弁護士連合会(日弁連)などから提起された。

なぜ日本からブラック校則はなくならないのか…校則は憲法より上位の存在、その校則の権限は校長に絶対的に委ねられている現状_2

その代表例である、長野県辰野高校では、1997年に学校に関する事柄を、生徒・教職員・保護者の代表者らが話す「三者協議会」を設置。アルバイトや服装の校則、授業が改善されるなど、生徒、教職員、保護者が、学校運営の主体として意思決定に関わっている。しかし、政府の対応が消極的で、自主的な取り組みだったため広がりには欠けた。

日本は1994年に子どもの権利条約を世界で158番目と遅く批准したが、批准した直後の1994年5月20日、文部省は「児童の権利に関する条約」について通知を発出した。

その中で、「本条約第12条1の意見を表明する権利については、表明された児童の意見がその年齢や成熟の度合いによって相応に考慮されるべきという理念を一般的に定めたものであり、必ず反映されるということまでをも求めているものではないこと」と記載し、暗に子どもの権利条約を批准しても、大きな変化がないことを示した。

これにより、先生が決めて児童生徒は従う、というパターナリズムの構造が変わらないままとなった。前述の通り、パターナリズムとは、強い立場にある人が、弱い立場にある人のためを思って、代わりに意思決定することである。しかし、本人の意思は確認しないため、本当に本人のためになっているかはわからない。さらに、数ある選択肢から自分で意思決定(自己決定)する力も育たないなど弊害は多い。

こうした政府の消極的な態度もあり、積極的に子どもの権利条約の中身について周知はされず、子ども本人も、教員も子どもの権利の内容について十分に知らない状態となっている。

公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが2019年に全国の15歳から80歳代までの3万人を対象に実施した子どもの権利に関するアンケート調査結果(「子どもの権利条約採択30年日本批准25年3万人アンケートから見る子どもの権利に関する意識」)によると、子どもの権利条約に関して、子ども8.9%、大人2.2%だけが「内容までよく知っている」と回答し、子ども31.5%、大人42.9%が「聞いたことがない」と回答した。