1990年代が消した1980年代
しかし、そうしたポジティブな時代も、長くは続かなかった。
1991年にバブル景気が崩壊。1995年にはオウム真理教による地下鉄サリン事件や、阪神淡路大震災があり、日本には暗い気分が蔓延していく。「理想化」によって拓けていた新しい世界が、1990年代という「現実」によって、駆逐されてしまったのだ。
それを象徴するように、1990年代に入ってからは、1980年代の風潮を否定的に捉える言葉も現れる。それが「80年代は、スカだった」というもの。さまざまに理想的なものが描かれていた1980年代が、「空虚」という言葉でなかば批判的に語られたのだ。
こうしてバブル崩壊を期に、1980年代に行われていたあらゆる文化の実験的な試みは振り返られることなく、現在に至っている。
村上春樹の転向
ところで、『シティポップ短篇集』には入っていないが、平中がシティポップ短篇を代表する作家だとして認めるのが、村上春樹だ。
「村上さんは、初期の作風は非常に都会的でシティポップ的だと思います。でも、先ほども言った通り『真実』を書くのが文学のメインストリームの伝統でしたから、文壇からの反発があったわけです。
それが変わったのが『ノルウェイの森』。ある意味では、伝統的な日本の小説だと思いました。そこから、より広く作品が受け入れられるようになり、国民的な作家になった。村上さんは有名になったけれど、村上さんの初期の作風に通じる都会的な空気感を持っていた他の作家は忘れられてしまいました」
このような歴史で見ていくと、『シティポップ短篇集』は、日本文学の歴史において、欠けてしまった1ピースを埋める作業の証なのだと思えてくる。
海外でシティポップ文学が受容される日
さらに平中は付け加える。
「日本文学の翻訳の状況を見ても、1980年代は欠落しているんですよね。1990年代以降は訳されている作品も多いのですが。
僕はフランスで日本文学を研究していましたが、外国で文学を研究している人たちは、最初の興味がアニメーションだったり、音楽だったりしても、最終的には文学を学ぶんです。みんな、文学はその国の文化が凝縮されたものだと思っている。だから、ある国の文化を知ろうとする人は文学に近付いていく。
海外の人が音楽のシティポップを面白いと思ったら、そこから、日本の同時代の文学に近付くことがあると思う」
現在、日本のシティポップは国内のみならず海外でも大流行している(そもそもリヴァイバルの発端は海外からの逆輸入だった)。そこからシティポップ短篇に近付く人もいるのではないかと平中は最後にそう語った。
忘れ去られた1980年代という歴史に輝いた文学たち。そのエッセンスを凝縮した『シティポップ短篇集』は、現在の日本の文芸界に新しいインパクトをもたらすのか。
取材・文/谷頭和希