日本マクドナルドのカサノバCEOが退任
カサノバが日本マクドナルドに関わるようになったのは、前任の原田泳幸が経営の舵取りを取っていたとき。日本マクドナルドの業績が低迷していた最中で、先行きの明るいスタートではなかった。
社長に就任後もトラブルの連続だった。就任から1年後の2014年には、チキンナゲットの期限切れ問題が発覚。就任直後から責任追及の声にさらされることになる。謝罪会見での対応にも批判が集中し、試練の連続の中でのスタートだった。
しかし彼女はそうした逆境をバネに、改革へのリーダーシップを発揮する。2015年には全国47都道府県を自ら訪れ、顧客との対話を重ねた。地道な努力が実を結んで、徐々に業績は回復し、2024年の過去最高益の達成につながっていく。
では、カサノバがトップになるまで、日本マクドナルドはどのような道を歩んできたのか。本記事では、半世紀以上にわたる同社の歴史を「経営者」に光を当てて紐解く。キーワードは「アメリカと日本」。日本の食文化に革命を起こした同社だが、その経営スタイルは「アメリカ」と「日本」の狭間で常に揺れ動いてきた。
藤田田が描いた"日本のマクドナルド"
日本マクドナルドの歴史は、藤田田という男から始まる。当時、日本でのマクドナルド経営権の買収に名乗りを上げた企業は何社にものぼった(その中にはドムドムバーガーを立ち上げた、ダイエーの創業者・中内㓛もいた)。その中で、藤田はアメリカマクドナルド社の創業者レイ・クロックの指名を受け、同社の立ち上げを任された。
藤田は当初から「日本独自の経営」を志向していた。日本マクドナルドも、自身の会社である藤田商店と、米国マクドナルド社とが資本を出し合った合弁企業の形をとり、より日本側の経営意図が働く形にした。
そうした意向は、日本1号店の立地にも反映されている。当初、米国マクドナルドは、国道沿いの湘南・茅ヶ崎への出店を提案した(「パシフィックホテル茅ヶ崎」の隣接地といわれている)。当時、アメリカのマクドナルドは郊外のロードサイド店舗が中心だったからだ。
しかし藤田氏は、この提案に反対。「日本で流行を生み出すのなら銀座から」という信念のもと、1971年、日本1号店を東京・銀座の三越百貨店に置いた。歩行者向けの店舗にしたわけだ。
結果、銀座の1号店は連日大盛況。導入されたレジスターが壊れるほどの客足で、客の数は毎日1万人を超えた。銀座の歩行者天国でハンバーガーを食べ歩く姿がメディアを通して拡散され、瞬く間に「マクドナルド」の名は日本中に轟くこととなる。