「あいつが入社してきたら、とっちめてやる」と息巻かれた重役面接
しかし、なぜか僕は落とされずに残っていった。5次試験だったか、目の前に出されたものについて3分間ほど話をするという課題が与えられた。ざるやモップ、百科事典……僕の前に置かれたのは赤電話だった。こんなときは電話にまつわるエピソードを上手にまとめて話すのが定番なのだろうが、これといって思い当たる話はなかった。
困ったあげく、たまたまポケットに入っていた十円玉を入れて、自宅の電話番号を回した。もちろん小道具の電話だからつながらないが、いま自分がどういう状況にあって電話をかけているかを母親に話して受話器を置いた。すると十円玉が戻ってこない。通話をしていないのに十円玉が戻ってこないことに僕は文句を言い立てた。すると、逆にそれが試験官にウケてしまった。
重役面接では、スタジオで俳優に扮した試験官に受験生がインタビューするという課題が与えられた。僕はインタビュー相手に仲代達矢さんを選んだ。当時、俳優座で「アンナ・カレーニナ」の舞台に立っていたのだ。仲代さんに扮する試験官は、のちに『パックインミュージック』のパーソナリティーとして伝説的存在となる桝井論平さん。僕は少し意地悪な質問をしてみた。
「仲代さん、前の公演はどういう役でしたかね」
案の定、桝井さんは答えられない。僕はすかさず言った。
「お互い勉強不足ですね」
サブ調整室にはスタジオの様子を眺めている社長以下役員がそろっている。TBS生え抜きのアナウンサーが一学生にやり込められる光景を彼らはきっと喜ぶはずだ。受かるはずがない、という余裕ゆえのサービス精神だった。
恥をかかされた桝井さんは「あいつが入社してきたら、とっちめてやる」と息巻いていたそうだ。後年、僕のラジオ番組のゲストに招いたときに、そうおっしゃっていた。
6次面接で残った8人は戦友意識で結ばれていた。「このうち何人受かるかわからないけれど、これからも仲良くしようよ」と喫茶店で話をしていた。最終的に合格したのは4人だった。ところが、その後「アナウンサーが足りない」ということになり、一般職を受験した者から声の良い4人を、まともな試験もなしにアナウンサー職で採用した。
「だったら最終試験まで残った8人を全員合格にすればよかったのではないか!」
それでまた、会社側と大げんかになった。
熱気をはらんだ時代だった。1960年代後半からはベトナム戦争反対を唱えて市民組織の「ベ平連」が東京都内をデモ行進し、国鉄と私鉄が共闘してストを打った。日本だけではなく、世界中の若者たちが既成の権威や体制に異議申し立てをしていた。ビートルズが世界を席巻し、ボブ・ディランが反戦歌を歌い、欧米でカウンター・カルチャーが花開いた。
僕が大学でしていた芝居は、フランスの翻訳劇などだったが、そのすぐ後に世の中を賑わせたアングラ演劇は、唐十郎の「状況劇場」や寺山修司の「天井桟敷」、そして鈴木忠志の「早稲田小劇場」も秩序を紊乱する猥雑なパワーに満ちていた。
高校でひときわリベラルな空気を呼吸した僕もまた、ノンポリなりに当時の若者に共通する権力への反発心、すなわち反自民、反安保の気分を抱えていた。
要するにエネルギーにあふれ、荒っぽい時代だったのだ。
文/久米宏
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