「何も考えてない、何も考えられない、やっぱりそんな感じだった」

必死で避難した後も、安否がわからないまま坂下さんを残した家を津波が飲み込む危険性があった。坂下さんの妻が続けた。

「避難してからお父さんの携帯に電話してみたら、驚いたことに出て『大丈夫、大丈夫』って言うんですよ。それが1月1日の17時ごろでした。お父さんは『ベッドが折れ曲がっている』など、少しの状況はわかるようでした。その後も電話でのやり取りが何回かできたものの、時間がたつにつれて『大丈夫』という声は力なくなっていました」

坂下さんはたまたまコタツのそばに携帯電話を持ってきていたので、無事に避難できた家族に自分の状況を伝えることができ、希望が繋がった。

救助された際の坂下さん(親族提供)
救助された際の坂下さん(親族提供)

坂下さんが言う。

「家族と電話できたことで『助けにはきてくれるだろう』と安心しましたね。いつ崩れるかわからない状況でしたが、不思議と死ぬかもしれないという悲観的なことは思いませんでした。何も考えてない状態というか。こたつの幅分の空間の中で体の位置もほとんど動かせない、何もできない状態でもありました。

最終的に私が助け出されたのは地震から17時間後だったのですが、その間、喉は渇かず、空腹も感じませんでした。さすがに眠れないし、断続的に起こる余震でときおりガサガサ、ガタガタという音は聞こえましたが、それでも恐怖はなかった。何も考えてない、何も考えられない、やっぱりそんな感じだったように思います。私自身は津波が迫ってきているのも知らなかったので、暗闇の中で考えていたのは家族の無事だけだったように思います」

坂下家の眼前には海が広がっており、周辺には津波被害を受けた家も多数あった。津波がギリギリ到達しなかったのは、奇跡かもしれない。

「家族の要請で一度は消防隊員が来てくれたんですけど、道具がないから取りに戻るということで、何時間も戻ってこなかったんです。私が消防隊員の方に両脇を引かれ救出してもらえたのは、地震発生から17時間後の1月2日の午前9時でした。今もトラウマになるようなことはないのですが、救出後はなんだかヨロヨロしてますね。店もレジが潰れてしまったし、もう続けられないですね」

取材に応じてくれた坂下重雄さん(撮影/集英社オンライン)
取材に応じてくれた坂下重雄さん(撮影/集英社オンライン)

坂下さんは救出時に家族が撮った写真を手に、激動の17時間を振り返った。救出された1月2日は喜寿を迎える誕生日だった。今年の年賀状には「ボケずに元気に朗らかに」と記していたそうだ。