「私はスターになれる人間じゃない」
1939(昭和14)年、宝塚歌劇学校を卒業して初舞台を踏んだばかりの越路吹雪は、岩谷時子と出逢った。
同年、大学を卒業した岩谷が就職したのは宝塚歌劇団の出版部で、ファン向けの雑誌『歌劇』の編集者になった。
宝塚では稽古場と編集部の部屋は近く、出番の少ない初舞台生たちがデスクに遊びに来ることが日課だった。
いつかサインを求められるスターになることを夢見ていた彼女たちの中に、「コーちゃん」と呼ばれる背の高い女の子がいた。本名が「河野美保子」という、越路吹雪である。
「ある日、越路さんが私のところに一人で来て、サインの見本を書いてほしいと言ってきたのです。彼女に与えられた芸名は字画が多いので苦労しましたが、私なりに一生懸命考えて書いてみました。彼女が生涯使っていたサインは、この時に二人で考えた合作なんです」(岩谷時子)
越路の同期には、乙羽信子や月丘夢路をはじめ、類稀な才能と美貌を持ち合わせた“金の卵”が揃っていて、一級下には将来スター女優となる淡島千景の姿もあった。
成績が悪くて落ちこぼれの越路は、「私はスターになれる人間じゃない」とこぼしていた。それでも従来の宝塚にはない不思議な魅力があったのだろう。次第にファンがつき始めた。
戦後の大スター・越路吹雪が生まれた瞬間
しかしそんな矢先、第二次世界大戦が勃発。1944(昭和19)年には宝塚大劇場も閉鎖された。
「死ぬなら家族一緒に」といった親からの便りで、若い生徒たちは故郷に帰って行った。残った者たちは空襲に怯えながら、慰問のために巡演に出掛けなければならなかった。
越路の家族は千葉県に住んでいたが、彼女は親からの便りが来てもなぜか帰ろうとしなかった。移動演劇隊で飛び回りながら、岩谷の実家(兵庫県西宮市)に身を置くようになる。
「母と私の二人暮らしだったし、その頃はすでに気心も知れていたので過ごしやすかったのだと思います。母は娘が一人増えたように彼女を喜んで迎え、二人はまるで私より遠慮のない親子のようでした」(岩谷時子)
1946(昭和21)年、敗戦の翌年春。ファンが待ち望んだ宝塚大劇場の舞台が再開され、戦時中に禁じられていたアメリカの歌が解禁。
喝采を浴びながら、宝塚の象徴である大階段を颯爽と降りてくる友の姿を、岩谷は舞台袖から見つめていた。
戦後の大スター・越路吹雪が生まれた瞬間だった。
越路吹雪が卒業して宝塚のスターになり、さらに歌手として成功したころ、宝塚歌劇学校の卒業式では、校長先生がこんな話をしていたそうだ。
「宝塚を出た方で、歌手の越路吹雪という人がいます。あの人は、予科・本科とも卒業する時は宝塚始まって以来の悪い成績で、これから先どうなるのかと心配していました。
ところが東京に出て、ミュージカルのスターになり、越路節のシャンソンを歌って多くのファンを魅了し、押しも押されもせぬ人気者になりました。ですから、皆さんの中に大変成績が悪い人がいたとしても力を落とさずに、越路吹雪を思い出し、自分を励まして下さい」