「私は帰ります」に込められた自立した女性の強さとしなやかさ

1973(昭和48)年に『かくれんぼ』でデビューした石川さゆりは、なかなかヒット曲には恵まれず、13枚目のシングルからは阿久悠と三木たかしのソングライター・コンビに楽曲を提供してもらうようになった。

しかし、透明な声を持った18歳の少女・石川さゆりに似合う歌は何かと探りながら、阿久・三木コンビが書いたシングルの『十九の純情』と『あいあい傘』は、2曲続けて空振りに終わった。

3曲目の『花供養』でもヒットが出なかったので、次の1曲を選び出すために『365日恋もよう』というアルバムが作られる。

1976年発売の『花供養』(コロムビア)。14作目のシングルレコードで、アルバム『365日恋もよう』にも収録された
1976年発売の『花供養』(コロムビア)。14作目のシングルレコードで、アルバム『365日恋もよう』にも収録された
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それは1月から12月まで12曲、日本中を舞台に季節を組み合わせて女性の恋を歌にする試みだった。アルバムが発売されたのは1976年11月25日。『津軽海峡・冬景色』はその最後の12曲目に収まった。

1月:伊那谷『伊那の白梅』
2月:札幌『雪まつり』
3月:鳥取『流しびな』
4月:(既発のシングル曲)『花供養』
5月:九州の日豊本線『日豊本線』
6月:長崎『雨降り坂』
7月:琵琶湖『螢の宿』
8月:高松『瀬戸の花火』
9月:淡路島『私の心の赤とんぼ』
10月:静岡『千本松原富士を見て』
11月:横浜『横浜暮色』
12月:青森『津軽海峡・冬景色』

そして1977年1月1日にシングルとして『津軽海峡・冬景色』が発売されると大ヒットし、第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。石川さゆりはNHK紅白歌合戦へ初出場も果たした。

アルバムからシングル・カットされた曲でヒットを放つのは、ロックの分野でよく起こる展開だ。このしっかりしたコンセプトがあったからこそ、必然的に生まれた名曲が『津軽海峡・冬景色』だったのだ。

石川さゆりはここで、傷ついた女心だけではなく、昭和という時代の空気、年の瀬といった季節感までを歌で表現できる歌手だと証明した。そして敗北から立ち直る意志を、「私は帰ります」と歌った。

そこもまた新しい女性の生き方を提示してきた作家、時代を先取りする阿久悠らしいところだった。自立した女性の強さとしなやかさは、石川さゆりというシンガーの方向を決定づけるものとなった。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP