右手を失っても野球人
「最初は右手人差し指と中指を感染症で切断したんです。その時点では『いいサークルチェンジが投げられるかも』ってアホなことを考えてたんやけどね(笑)。
結局、感染拡大を食い止められず、右腕ごと切り落とすことになりましたが、今度は残った左腕で投げられるようにしたるって」
隻腕になっても、小学校4年で出合いたくさんの経験をさせてくれた野球への情熱を失っていない佐野さん。
高校時代は強豪・松山商業で控え投手ながら甲子園準優勝、進学先の近畿大学で頭角を現すとプロの目に止まって1990年ドラフト3位で近鉄に入団。1996年オフには中継ぎ投手初の年俸1億円を突破し、「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」(フジテレビ系)ではそのキャラクターがフィーチャーされて人気選手の仲間入りも果たした。
「入った球団がよかった」と、佐野さんは今はなき近鉄バファローズ時代をこう振り返る。

「本当に居心地のいいチームでしたよ。仲がいい同僚がいて、個々の選手の意識も高い。近鉄という球団で過ごした日々は本当に充実していました」
しかし、理解者であった仰木彬監督が退任し、野茂英雄や吉井理人、入来智といった盟友たちが次々と近鉄を離れると、モチベーションの低下と自身のトミージョン手術の影響もあり成績は低迷。トレードで中日へと移る。
「新天地では腐りきってました。うまくいかなかったら人のせい。自責ではなく他責思考ですよね。野球に対してまったく真摯に向かっていなかったんです」
そんななか、イチから這い上がる覚悟で佐野さんは渡米を決意。アメリカで大成功していた野茂氏の存在もあっただろう。だが現実は甘くない。独立リーグのエルマイラ・パイオニアーズに所属後、ドジャースとマイナー契約するも、ついにメジャーに昇格することはなかった。
それでも“野球人”である佐野さんにとって得たものは大きかった。
「マイナーだからいつクビになるかわからない。そんな立場なのにチームメイトは本当に楽しそうにやってるんですよ。
それが不思議でしょうがなかったから『お前ら、不安じゃないのか?』って聞いたら『自分の好きなことをやってるのに、なんでネガティブなことばかり考える必要があるんだ?』って逆に質問された(笑)。
ハッとしましたね。たしかに自分は楽しむことを忘れてた。そこからまた野球に向き合えるようになったと思います」