『源氏物語』の時代に、恋愛が重要視されたわけ

日本最高峰の古典文学と言われる『源氏物語』。その主たる題材は、まさに「愛憎」です。

男性と女性の間で繰り広げられる恋愛やそこから生まれる憎しみや悲しみが、赤裸々に描かれた作品です。

なぜ、平安時代にこの物語が生まれたのか。それは、男女の恋愛が大きく政治に影響を与える時代だったからこそ、です。

政治というものは、基本的にはシステムで動くものなので、「ドロドロとした人間関係が影響するわけがない」「恋愛で政治が変わるわけがない」などと言われてしまうのですが、平安時代は男女関係が政治関係を大きく左右する重要事項だったのです。

『源氏物語』が生まれた一条天皇の時代は、藤原氏の内部で大きな権力闘争が起こっていました。対立していたのは、藤原定子の兄である藤原伊周と藤原彰子の父である藤原道長です。

定子と彰子は共に一条天皇の正妻であり、同じ立場にいるライバルのような存在。決め手となったのが、どちらの女性が天皇により多く愛してもらい、早く子をなすことができるのかでした。

天皇が通いたくなる文化的サロン創設に利用された紫式部…恋愛が政治や権力にそのまま影響した平安時代の女性の生き方〈大河『光る君へ』でも描かれる!?〉_2

「天皇の子どもを誰が生むかによって、誰が権力を握るか決まる」という権力構造は、偶然性が作用する非常に危ういものですが、これが摂関政治における一つの特徴です。

どこが危ういのかというと、すべてを偶然に頼らねばならない点でしょう。まず、自分に娘が生まれなければならない。しかも、その娘を天皇の妻にして、子どもを産ませなければならない。仮に子どもが生まれても、その子が男の子であるかもわかりません。これは、非常に不安定極まりない。

本来、政治というものは、システムさえ確立されていれば、どんな人が天皇であっても本来は構わないし、言ってしまえばお飾りでも構いません。

それを見事に体現したのが、江戸時代の徳川幕府です。徳川家康は「将軍はバカで良い」と割り切り、三代将軍の家光以降は、どんなに無才で問題のある人間であっても長子が跡を継ぐようにと決めていました。

要するに、将軍はお飾りに過ぎず、幕府というシステムでしっかりと政治を運営すれば問題がないと家康は考えていたわけです。実際、徳川家の家臣たちがしっかりとトップを支えていたので、将軍はお飾りでも全く構いませんでした。

天皇が通いたくなる文化的サロン創設に利用された紫式部…恋愛が政治や権力にそのまま影響した平安時代の女性の生き方〈大河『光る君へ』でも描かれる!?〉_3

しかし、藤原氏の摂関政治においては、誰が天皇の寵愛を受けるか、そして誰が天皇の子どもを先に産むか、という男女の交わりが、政治の行方を決める最大の比重を占めていました。

だからこそ、藤原氏で「自分がナンバーワンになりたい」という権力欲が強い人は、天皇の妻にするにふさわしい年ごろの娘がいることが、最大の武器になります。もしその家に娘が生まれると、息子が生まれたときよりも、一族は喜んだと言われます。