父親に甘える少女のような笑顔の妻

「ペコ、寝る前に、ちゃんと口をゆすいでね」

「はぁい。大丈夫よ」

カミさんは毎晩夜の21時頃にはベッドに入り電気を消すのだが、23時頃に再びトイレのために起きることが多い。もちろん、認知症のために視野が狭くなっており、トイレを出てゆっくりゆっくり歩いてくるのだが、必ず僕の寝室に立ち寄り、前述したような僕たち夫婦の恒例儀式が始まる。

最近では体調が良い日が続き、さらに“希望の光”が増して、きちんと「おやすみなさい」が返ってくる回数が増えている。

「おはようございます!」

「これから寝るところなんだから、“おやすみ”だろう、ペコ」

「おやすみなさい、啓介さん」

こう言うと両手を大きく広げて、あのドラえもんのような笑顔で僕にハグを求めるカミさん――。

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大山のぶ代さんイベントの様子(共同通信)
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今だから明かせるが、僕は当初、彼女のこの“行動”に戸惑いを隠せなかった。だって僕たちは、これまで長年にわたり“触れ合わない夫婦”だったからだ。30代の頃から寝室を別々にしていたカミさんと僕は、もう長いこと互いの肌に触れることはなかったし、彼女がこんなふうに“抱擁”を求めてくることもなかったのだ。

「なんだか、恥ずかしいよな」

僕がこう照れ笑いを浮かべても、彼女は僕を真っすぐ見つめて両手を広げている。
結婚から半世紀を経た今になって、毎晩、ギュッと夫婦で抱きしめ合うようになるなんて。
この年になって初めて、夫婦のぬくもりを今、痛切に感じている気がする。

間もなく80代に突入する僕の腕は、若い頃とは違って筋骨隆々とした逞しさはないし、力強くペコのことを抱き上げることだってできない。

それでも、優しく静かに彼女を抱きしめることだけはできる。
僕の腕の中で、カミさんは満足そうな笑顔を浮かべる。父親に甘える少女のような、屈託のない穏やかな笑顔。彼女の体温が、じんわりと僕の心に沁み込んでいく。

「啓介さんのことが、好きで好きでしょうがないんでしょうね」

野沢さんや小林さんにそう言われると、気恥ずかしくなる一方で、僕はつい考えてしまう。

もしかしたらカミさんはずっと僕と触れ合うことができずに、寂しかったんじゃないか?

口には出さなかったけれど、本当はもっと触れ合い、抱き合いたかったんじゃないだろうか?

時には、なんの脈絡もなく、彼女は突然、手を差し出してくることもある。

「啓介さん、握手してよ」

「え? ペコ、握手?」

「そう。握手、握手よ」

そう言われるがままに、彼女が差し出した手を取ると、強く強く、ペコは僕の手をギュッと握り返してくる。

「啓介さん、あたしのそばから離れないでね。ずっと、隣にいてね……」

彼女の手はまるで、そんなことを言っているみたいだ。出会った頃からずっと、決して変わることのない僕への“愛のメッセージ”を、囁いているような気がする。だから僕も、そっと手を握り返す。

文/砂川啓介
写真/Shutterstock

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『娘になった妻、のぶ代へ 大山のぶ代「認知症」介護日記』
砂川啓介 (著) 
脳梗塞のリハビリ中に認知症を発症した大山のぶ代。在宅介護に励む夫・砂川啓介がある夜、階段で「グニャリ」と踏んづけたものは? それでも確かにある“夫婦のぬくもり”_6
2015年10月21日発売
1430円(税込)
240ページ
ISBN:9784575309553
2012年秋、しっかり者の姉さん女房だった妻が、認知症と診断された―。ドラえもんだった自分を忘れてしまった妻、大山のぶ代と、妻の介護に徐々に追いつめられる夫、砂川啓介。おしどり夫婦と呼ばれた2人の日々は、今も昔も困難の連続だった……。全国460万人以上の認知症患者とその家族へ綴る、老老介護の壮絶秘話!
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